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桜、そして「第三章 とある医者の死」~『最後の医者は桜を見上げて君を想う』より~


今年の桜は咲き急ぐ

 桜前線は北上し、ただ今は北海道に上陸中だ。今年の北海道は観測史上、もっとも速いスピードで桜が開花しているらしい。北海道だけではなく、どこの地域でも今年の桜はいち早く咲き、早々に散っていったようだ。

桜と三人の医者

 死病の患者たちと彼らの病に向き合う対照的な医者二人との医療小説、
『最後の医者は桜を見上げて君を想う』。この本の最終章、第三章目の最後の場面にタイトルにも含まれている桜の花が登場する。対照的な二人の医師とは、その一人は患者の延命を諦めない医者、もう一方は積極的に命を繋ぐばかりではなく、余命を受け入れる選択もあると言い切る医者だ。そして桜が登場する第三章の患者は「とある医者」。この「とある医者」は、先の対照的な二人の医者と同じ大学を卒業し、同じ病院に勤務している。医者としての理想を抱き、それを実現させるべく医師となった三人だ。

 「とある医者」が亡くなり、二人の医者が墓参りをする場面に桜の花は咲いている。文中に「三月二十二日」とある。春の彼岸の中日の墓参りだろうと推測できる。
桜の描写は二か所ある。

桜が咲いていた。
風が吹くたび、その花びらがひらひらと舞い、渦を作っては通り過ぎていく。

『最後の医者は桜を見上げて君を想う』(二宮敦人/TO文庫)より「第三章 とある医者の死」 p.410

今一度、桜が逆巻いた。
温かな桃色の風が流れ、花びらを吹きあげると、揺れていた。

『最後の医者は桜を見上げて君を想う』(二宮敦人/TO文庫)より「第三章 とある医者の死」 p.413

先の桜は、「三月二十二日」の墓参りの冒頭、後のそれはこの墓参りの最後、それぞれの場面で描かれている。どちらの桜も同じように風に吹かれ、花びらが舞う姿だ。ただひとつ違うのは、始めの桜の花びらは「通り過ぎていく」が、終わりの花びらは「揺れていた」ことである。

 「通り過ぎていく」桜は、亡くなってしまった「とある医者」を、そして限りある命の儚さを表しているのでは、と思う。すぐに散ってしまう「桜の儚さ」は平安時代から日本人が抱く感情だ。比喩にしばしば使われる。一方、「揺れていた」桜の花びらは残された日々を悔いなく生ききる患者たちに対峙する対照的な二人の医者の心を、さらに「とある医者」の想いをも指しているのでは、と考える。

 患者の限りある命への向き合い方に対立する二人の医者の間を取り持ち、隙間を埋めていたのが、命の最後を自ら選んだ「とある医者」だ。友人の死により残された二人は「意見が全く合わないわけでもない」ことに気付き、そして、亡くなった友が残してくれたものに想いを馳せる。このことについては、墓参りを済ませ先に帰る医者と、後から来て墓前に手を合わせる医師とが離れていく「距離を埋めるように」、「温かな桃色の風が流れ、花びらを吹きあげると、揺れていた」と書かれていることから想像する。

 このはっきりと「桜」とわかる描写より以前に、もうひとつ「桜」を思わせる場面がある。それは友人の「とある医者」が生きている最後の会話の様子だ。死に向かうこと、「人間になる前の状態へと帰る」ことを決めてしまった、圧倒的な輝きの笑顔を持つ友の寝姿に「手を出して掴まなければそのままどこかに搔き消えてしまいそう」と感じる場面。これに呼応するのが「全てを失う者からの、全てを肯定する言葉」に何も言えず、「胸の奥にひらひらと花弁のように落ちてくる友の言葉を、逃がさないように受け止めて掴み」頷くばかりの場面とだ。この「花弁」が「桜」だと考えるのは、後の彼岸の墓参りの描写から容易である。

最後の医者は桜を見上げて君を想う

 残された二人は春の墓参りごとに桜を目にし、医療のプロである自分たちが、患者の最後の幸福を想いながらも、時には「これでよかったのか」と揺れる自身の弱さを吹きあげ、前に進むことだろう。
そして、ひらひらと踊る花びらを撒く桜を見上げて、自らの生き方を全うした、医師である強く美しい友人を静かに想うことだろう。

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