をかしとあはれの和歌草子「#1 いちばん好きな和歌」
五月になった。早くも立夏が過ぎ、初夏を迎える。
心地よい季節は短いけれど、青いもみじは瞳に清々しく、鼻腔には蜜柑の花や新茶が香しい頃である。
この頃に思い出す和歌がある。
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
「題知らず」、「よみ人知らず」、『古今和歌集』夏歌に収められている。技巧に任せず、シンプルで分かりやすい和歌である。現代語訳(筆者訳)としてはこうである。
五月になるのを律儀に待って咲いた橘の花の香りをかぐと、以前に親しくしていた人の袖の香りがする(その人を思い出す)
自然の変わらないイメージ(毎年同じような頃に花を咲かせる)を橘の花に表し、あやふやで頼りなく変わる人の心の寂しさを詠んでいる。この「人」は関わりのあった友人、知人、そして恋人とどちらにも置き換えることができる。この和歌では「恋人」であろうとされている。
そして、このよみ人知らずの夏の和歌は八代集といわれている和歌集の中で、私が最も好きなものである。
大学卒業の時、ゼミ生全員で自分の好きな和歌を一首選び、それぞれが手書きで短冊に記したアルバムを記念に教授にお渡しした。それをご覧になった教授は私たちひとりひとりにコメントをくださる。私には、
「誰が選んだのか名前を見なくても、あなただと分かりましたよ。あなたらしい選歌ですね。」
と言っていただいた。「あなたらしい選歌」という言葉に私自身をきちんと表現できていて、それが正しく伝わっているように感じ、とても嬉しかったのを今でも覚えている。
さて、なぜ、この和歌が好きなのか、というとこの和歌中には私の好きなものが幾つか詠み込まれているからである。
そのひとつは、一年の中で一番好きな五月。好きな理由は、木々に青々とした葉が瑞々しく茂る様が美しく感じられること。そして私が生まれたのがこの頃であること。母よ、よくぞこの生命力溢れる美麗な五月に産んでくれたことよ、と毎年思う。
次に、香り。私は鼻がよく利き、匂いには敏感だ。世間の様々を香りで判断することも多く、良き香りが近くにあるとこの上なく幸せを感じる。
さらに三つ目、橘。これは柑橘とひとまとめにしたい。レモンやライム、グレープフルーツに蜜柑など柑橘類が私の好物。つぶつぶの食感、酸味、それに加えて香りが好み。
そして最後に、私は牡牛座。この星座は土(地)の星座で、変わらないものに安心感を見出す、と言われている。変化よりも習慣と継続という安定をこよなく愛するいきものである。そのため、変わりゆく物事に対して人一倍、寂しく感じ、傷付く。私自身、変わらないものへの信頼は実感するところ。
好きな事物が三つと変わる心や事象を残念に思うことを詠んだこの和歌。これを私が好きな一首に選ぶことは、必然なのである。
参考資料
『新訳 古今和歌集 現代語訳付き』高田祐彦 訳注 (角川文庫)
『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 古今和歌集』中島輝賢 編 (角川文庫)