2022年7月28日付、マスナリジュンさんへのツイートに関する謝罪公告について
謝罪公告です。
2022年7月28日、わたしはマスナリジュンさんを名宛し、以下のツイートを投稿しました。
上記ツイートは投稿後、特段説明を行うことなく削除をしましたが、改めて不適切な内容だったと撤回するとともに、マスナリジュンさんにお詫びをお伝えしたいと思います。
謝罪を公開する理由は二つあります。
一つ。自分にこのツイートを投稿する意図がなかったことです。
わたしには自分の考えを一旦ツイートに打ち込み、自分なりに消化してから下書きを消すという習慣があります。
自分の考えを140文字にまとめる練習と、下書きしたツイートを送信せずに消す、いわゆる「この指止める」習慣を自分に定着させる習慣づくりのためです。
わたしにこのツイートを投稿する意志がなかったのは、わたしがマスナリさんと個人的に交友があるからです。
特にわたしからは思ったことを相当率直に打ち明ける関係だと思っていますが、このような口調でわたしがマスナリさんに自分の意見を伝えることはまずありません。
マスナリさんに個人的な敬意を払っているからです。
従って内容云々以前に、このようなトーンでマスナリさん宛のツイートを投稿したことはわたしにとって後悔であり、口調も挑発的でありましたので、謝罪に値する内容であったと思っています。
(わたしからすると)氏は友人ですが、友人に対する失礼な投稿を公開してしまったこと。これが謝罪と撤回の第一の理由です。
二つ。ツイート内容が内心だったため、投稿をご覧いただいた方からすれば全く意味不明な内容のツイートになっていたことです。
内心とはいえわたしが考えていたことに相違はありません。加えて名宛されたマスナリさんは「現実を見ていない」と非難されたわけですから、侮辱と受け取られるのも当然のことと感じています。
いったん表現として公の場に投稿した以上、わたしがどのようなことを考えていたのかは公に説明する責任があると思っています。わたしなりの後始末のつけ方だとお考えください。関心のない方には仰々しいタイトルの記事が飛んでくるという格好になりますので、恐縮至極という感じです。
さて長くなりましたが、ここから本題の投稿趣旨の説明に入らさせていただきます。
マスナリさんからはいくつかご質問をいただいていますが、もともとがほとんど日記といってもいいツイートですので、個別の質問に答えるよりも
むしろわたしの基本的な考え方やスタンスのようなものをご説明した方が伝わりやすいかと思いました。
マスナリさんに宛てですが、興味を感じた他の方に読んでいただいても趣旨が伝わるよう綴っていきたいと思います。
1.ジェンダークレームとアンチジェンダークレーム(AGC)
わたしはtwitter上で「アンチジェンダークレーム(略称:AGC)」という有志活動に参加しています。
耳慣れない単語かと思いますが、AGCという活動に厳密な定義があるわけではありません。2022年に入ってから新しく旗揚げされた、「主にジェンダーの観点から行わるSNS上のクレームや誹謗中傷問題を考えるため、近しい問題意識を持つアカウントが意見交換するtwitter上のゆるやかな活動」くらいにお考えください。
「アンチ」ジェンダークレームと言うくらいですので、ジェンダークレームに対して問題意識や危機意識をもっているのですが、そもそもジェンダークレームとは何か? というと下記noteにその定義をまとめています。
(なおこのnoteはわたしの他、天路めあさん、神崎ゆきさん、手嶋海嶺さんの4名による共著ですが、アンチジェンダークレームの活動に参加いているのはわたしと天路めあさんの2名です。神崎ゆきさんと手嶋海嶺さんとはジェンダークレームの定義についてまで、共有しています)。
「ジェンダークレーム」を簡潔に述べると、「ジェンダーの観点から表現に対して行われる言いがかりや難癖、バッシング」のことだとお考えください。
具体的には以下のようなツイートなどが該当します。
こうした事例は日々新たに追加されており、枚挙に暇がありません。
わたしたちAGCは、このようなSNS上の過度もしくは執拗なバッシングに反対する立場のアカウントたちのゆるやかな総称です。アンチジェンダークレームという名称が、わたしたちの問題意識を代表する旗印のようなシンボルとなっています。
2.フェミニストとジェンダークレーム
ここまでお読みいただいた方は、「ジェンダークレームというのはイコールフェミニストが行う表現バッシングのこと?」というご感想をお持ちになられた方もいらっしゃるかもしれません。
明確にお答えします。その回答はノーです。
より正確にいえば、「ジェンダークレームはどのような人間でも行ってしまう可能性」があります。
例えばこちらの事例をご確認ください。子育て夫婦が、あるときお互いの性別が入れ替わってしまったという、「子育てと性転換」がモチーフの漫画の一部がtwitter上にアップされた事例です。
こちらのツイートには1,460の引用ツイートが付されていますが、作者に対する内心の決めつけや人格攻撃、人格否定の言葉が少なからず散見されました。例えばこのような投稿です。
大前提として、この投稿をされた方がフェミニストなのかわたしには知るよしもありません。この投稿を見て、この投稿者のジェンダー観についてどのような印象を受けるかは読み手によってさまざまだと思っています。
ただわたしにはこの投稿にはフェミニズムの要素を感じませんでした。にもかかわらず、この投稿は作者の人格を女性器に貶めて攻撃しており、ジェンダークレームに該当すると思っています。
ジェンダーの観点から行われるクレームは、誰か特定の属性の人間だけが行うものではありません。
誰でも、どのような属性の人間でも、ジェンダークレームを行ってしまう可能性があります。それはこのnoteを執筆しているわたし本人においてでもです。
3.クレームとは一体何なのか
それではクレームとは一体何なのでしょうか? ここからはわたしの私見として検討してみたいと思います。
クレーム、特に悪質クレーマーはしばしば「対応困難者」と呼ばれます。行政の現場になりますが、消費者庁が作成した「相談対応困難者(クレーマー)への相談対応マニュアル」において、クレーマーの定義は以下の通り記述されています。
消費生活センターは行政の現場として、消費者に対する奉仕の義務を負っている立場といえるでしょう。それにも関わらず、消費生活センターの現場ではある種の相談者のことを「クレーマー」と分類し、それ専用の対応マニュアルの作成まで余儀なくされている現状があります。
わたしはここで消費者行政の是非ついて論じたいわけではありません。クレーマーというカタカナ言葉を、日本語に置き換えるならそれは「対応困難者になる」という点を共有したいと思っているのです。
先ほど例に挙げたジェンダークレームを、「対応困難者」という観点から考察してみたいと思います。
クレームというのはある種の「主張」や「要求」です。クレームを受け取る側はその主張や要求に応えようと努力を試みます。応答への努力をresponceと呼ぶならば、応答する責任を引き受けることをresponsibilityと呼んでも差し支えないでしょう。
読者のみなさんなら、こういった「要求」にどのように応答されますか?
わたしには、「いいえ、違います」と声を絞り出すしか返事が思い浮かびません。
わたしにはこれ以上の回答は対応困難のように感じられます。
クレーム、特に悪質クレームは一見呼びかけです。何かに基づき、対話を求め、相手に何がしかを要求するという一連のプロセスのように見えます。しかしクレームの本質は、要求であるにも関わらず対応が困難ということに他なりません。
相手の問題意識がどこかにあるとしても、相手の要求に対応することがその人にとって困難なもの(クレーム行為)、それが対応困難者(クレーム行為者)なのではないでしょうか。
一見対話の要求に見えて、その実は対話の打ち切り、つまり最後通牒であること。これがクレーム問題の本質なのではないかとわたしは考えています。
一言でいうと、「他に言い方、言いよう、アプローチはないものか? 相手の顔を青くさせたり赤くさせたりするような要求の仕方以外に?」というのがわたしの率直な感想です。
しかしこうしたクレームの特性からいって、クレームは特定の立場や属性の人たちのみが行うものではありません。誰でも、もちろんわたしも、明日には誰かにクレームを行ってしまうかもしれません。
あるいは今日、このnoteを読んだあなたが誰かから「対応困難に感じる主張や要求の数々」を受け取っているかもしれないと思いながらこの文章を綴っています。
4.アンチフェミニストとアンチジェンダークレーム
アンチジェンダークレームは、ジェンダークレームを良くないこと、社会問題の一つにまで大きくなりつつある(あるいはなっている)と受け止めています。ジェンダーの観点から行われるクレームに特に危機意識を抱いているものの、クレーム全般に対して距離を置こうという姿勢を持っています。
従ってAGCとアンチフェミニストは異なる概念です。もしアンチフェミニストと自称する人物が誰かを過度に、あるいは執拗にバッシングしたなら、わたしはそのバッシングを否定的に受け止めます。それがアンチフェミニズムだからではなく、対応困難なクレームであるがゆえに反対を表明します。
twitter上のバッシングを昼夜探しては拾って、一つ一つに反対の声を上げることは個人の余力として難しいかもしれません。
ですが、
自分がクレーマーにならないよう注意を払うこと、
対応困難者からは距離を取る選択肢もあるという声を上げていくこと、
クレーマーにならないよう呼びかけること、
もし自分がクレーマーになったときに周囲に注意してもらえるよう自分の立場を明確に表明しておくこと、
こういったささやかな努力ならば自分にも心掛けることはできるのではないかと思っています。
こうした価値観を共有できる方たちとの意見交換の輪を少しずつ広げていきたい、というのがAGCの活動方針だとわたしは受け止めています。
しかしAGCは、まだ産声をあげて半年も立たないとても小さな活動です。名前も仰々しいし、ふだんツイートのTLに流れてくるのはおっかなそうな炎上事案に言及することがしばしばです。いわゆる「一般受け」というのはなかなか望めない方向性なのかもしれません。
それに相手の発言をクレームと判断することは、独善に陥るリスクがあります。もともとは自分もクレーマーになってしまう可能性があるという危機感がなくては、周囲からみて過激で異様な集団に見えてしまうのかもしれません。
ただわたしはそれでもいいのではないかと思っています。自分たちが中立の立場から見ればどう見えるのかも大事かもしれませんが、それよりもアンチジェンダークレームという立場が強調したいのは、対応困難なクレーム対処に悩む人たちの応援です。
具体的には、【対応困難者の強い要求に対して「できない」と明確に伝える選択肢もあるということを、表現者にも知ってもらいたい】ということです。
5.クレームと正当な批判、そして表現の自由について
AGCの活動をするにあたって、しばしば「表現の自由」との整合性を問われることがあります。
とても難しい問いではありますが、わたしがいま持ち合わせている回答はこのようなものです。
①表現は、表現者あってこそ表現される。従って表現者の人格的尊厳を毀損するようなバッシングには賛同しかねる。
②表現の自由と、その表現を受け取る義務はセットではない。それが対応困難な要求である場合、相手の要求を受け取らない権利も強調されてよい。
③表現の自由は、わたしたち個々人が幸福を追求するために与えられている。もしクレームこそが自分の幸福追求なのだ、と信じる人たちがいるなら、わたしはその方たちと距離を取り、そしてクレームに苦しむ人たちにもそうするよう呼びかけるしか手段を持ち合わせていない。
④もしこのような方針を表現の自由を尊重していないと批判されるなら、その通り。表現の自由よりも、その礎となるべき個々人の幸福追求を優先したい。
⑤ただし距離を取ることは、本来「最後の手段」が望ましい。相手に主張や要求を投げかけるときは、「相手にとって対応困難な発言になっていないか」という観点から、その発言の仕方(言葉遣いや口調、トーン、態度)は配慮の余地を最大限工夫することが求められるのではないか。対話することの希望と努力は放擲したくない。
全く個人のお気持ちですし、理屈としては一貫しない点も少なからず感じられることかと思います。しかしここからはみ出して表現の自由を追求すると、どうにもバッシングまで発展しかねないようだという経験則を痛感しています。
現行憲法の理念が、なぜ数ある基本的人権のカタログの中で【個々人の幸福追求権】を基も基盤的なものとして位置づけたのか、こうした問題を検討するたびにその意味を考えさせられます。
「自分の発言もまたクレームになっているのではないか?」
この視点を保つだけでも、精一杯。等身大だという反省があります。
6.最後に
このような立場は表現の自由を原理・原則的に尊重する方からは逸脱や邪道に見えることがあるかもしれません。いわゆる表現の自由を議論する界隈において、このような考え方の人間は少数派なのかもしれないという自覚はあります。twitter上で探そうと思っても、「表現の自由界隈」からはなかなか出会うことがないかもしれません。
ただ表現者に焦点をあててバッシングや誹謗中傷から距離を取ることによって、結果的に豊かな表現の享受につながると、確たる根拠はありませんが今は個人的にそのように期待をかけています。
相手との建設的な対話を困難にせしめるような無理難題の相談から、心身の保全のために距離を取りたいという人たちがいます。わたしのことは置くとして、お時間のあるときにそのような方々の日々のツイートを辿っていただけないものかと思います。
派手な発言をしているわけではないので目立つわけではないかもしれません。ですがそういうアカウントがあるという現実を拾い上げてほしいし、そういう方たちが一体何を考え、何に悩み、どうやって現実問題に対処しようと苦闘しているのか、その声に耳を傾ける機会をときに設けていただけると嬉しく思います。
少なくない人たちが、ジェンダーの要素を含んだ対応困難な要求に疲れ果てています。
その疲弊感が、本来は建設的に議論されるべきだったジェンダー問題に向き合うための体力を削いでしまいかねない現状を、個人的に憂慮しています。
以上