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第一五八回芥川賞受賞作品『百年泥』についての一考察


総評
 マジック・リアリズムの手法を取り入れつつ解説的なエピソードを交えながらインドの極彩色的混沌を日本人に分かりやすく描き出している。イメージ的に、と言ってもいいかもしれない。シニカルな自虐的ユーモアを含んだ語りには言葉選びや表現にセンスと勢いがあり落語的な印象を受けた。確固たる文体があり、言葉による表現を模索してきた作者の努力の成果を感じる。百年に一度という大洪水によって溢れた泥の中から出たアイテムをきっかけに誰のものともつかない、あったかもなかったかもしれない挿話がめまぐるしく披露される。飛翔通勤を描きつつインドの学校での体罰や恋愛結婚の難しさ、女の子の境遇など実際の問題を色濃く取り入れているあたりガルシア・マルケスの『百年の孤独』を彷彿とさせる。登場人物がわざとらしくなく実に魅力的に描かれている。

芥川賞受賞について
 芥川賞受賞に至ったのは言葉に対するセンスと語りの勢い、嫌味のなさが選考委員の背中を押したのではないか。マジック・リアリズム的手法と結果的に作品全体にかかってくる母親という存在の共通点から第一一五回芥川賞受賞作、川上弘美の『蛇を踏む』が嫌でも思い出される。現実の中に幻想が入り込み現在の中に過去が織りこまれ主人公の精神の瓦解が感触的に読者に襲い掛かる『真鶴』に代表されるように川上弘美は常々マジック・リアリズム的手法で自身の小説世界を構築しているし、心情描写を排除し台詞とエピソードだけで登場人物の人柄や心情を描く漫画的な手法を得意とする山田詠美が高評価を付けたのもさもあらんという感じである。いかにも川上弘美、山田詠美好みの作品と言える。

作品解説
 p75〈私はぼんやりとした子供だった。たとえば日曜日、家にいて、隣に母がいて、編み物をしている。~海へたどりついたりするようすを想像した。〉この小説を包括的に説明している象徴的な段落である。この小説で作者が取り組んだことはあらかたこの段落に書いてある。〈両方とも同じ日曜日〉〈すごした日曜日と、すごさなかった日曜日〉は〈どちらが本物とか正しいとかいうのではない。〉、〈私は母と背中でしずかに押しあいながら、それらの母のことばや声がコスモスの花びらやハコベの葉っぱにしずくをむすんだり、トタン屋根にはねたり、雨樋を走ったり、側溝できらめいたり、暗渠をへて川へ流れ、海へたどりついたりするようすを想像した。〉
 泥から引っ張り出された人々は若いままで引っ張り出した人々は年老い、あった思い出と無かった過去を語り出す。〈かつて綴られなかった手紙、眺められなかった風景、聴かれなかった歌。話されなかったことば、濡れなかった雨、触れられなかった唇が、百年泥だ。あったかもしれない人生、実際は生きられることが無かった人生、あるいはあとから追伸を書き込むための付箋紙、それがこの百年泥の界隈なのだ〉p118とあるように百年泥は永久凍土に凍結された(永遠に失われた)「可能性」であり、百年泥界隈は凍結した「可能性」が溶解した場である。その中で主人公は〈こうなにもかも泥まみれでは、どれが私の記憶、どれが誰の記憶かなど知りようがないではないか? しかしながら、~ 実のところ私の人生のそうとう前、たぶん母を亡くした時点から自身の人生のパーツパーツにいまひとつリアリティがもてないでいたのだったが、どうやら私たちの人生は、どこをどう掘り返そうがもはや不特定多数の人生の張り合わせ繋ぎ合わせ、万事繰り合わせのうえかろうじてなりたつものとしか考えられず、そんなことを知るために以下略〉p123という結論に行き着く。主人公は母親を失って以降自分の人生を生きてはいないと気づく。
 正しい日本語と間違った日本語を織り交ぜ、日本とインドの文化的差異を対比させ、人間の脳(記憶、自我の形成)に意欲的に取り組んだ労作だと思う。無言の母、無口な私と泥から出た語り出すアイテムたちや死者と年老いた人々(あったかもしれない時間と実際にあった時間)の対比など中編に相応しく出てくるものは全てが象徴的であり効果を付与している。

最後に……
 以上書き連ねたことは見解の一つに過ぎず読書には正解というものがない。一冊の本を十人が読めば十通りの読み方があり、逆に十人が読んだにも関わらず一つの見解にしかならないのであればそれは駄作である。名著ほど何通りの読み方が出来るもので、読書とは作品の中に自分自身を見出す作業なので、「この人はこう読んだんだなぁ」程度に思っていただければ幸いである。

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