パズル 1 プロローグ
プロジェクト・ポパイ 一九六六年
漆黒の闇の中、C130A輸送機は雲の下に入り込み、大量のヨウ化銀溶液の噴出を始めた。吐き出されたヨウ化銀溶液は空中で霧状になり、上昇気流に乗って雲の中に吸い込まれていった。
後続のC130A輸送機が後を追うように近づき、闇夜に浮かぶ雲の中に突入した。
雲の中に入った後続のC130A輸送機は、機体後部に設置された装置から微細に粉砕した大量のドライアイスを一斉に投下した。ヨウ化銀溶液とドライアイスは、雲の中で混ざり合った——。
この作業は、ベトナム上空で密かに繰り返し行われた。
米空軍は高度な電波妨害装置を使用し、敵に気づかれることなく無事に任務を遂行することができる。特命を受けた優秀なパイロットたちにとっては、畑に農薬を散布することとさほど変わりのない退屈な任務だった。枯れ葉剤の散布も爆撃も行わず、C130A輸送機はFー4ファントムを護衛に引き連れて、すみやかにベトナム上空を後にした。
その数時間後——。
ベトナムのある地域は一時的な豪雨に襲われた。三時間ほどの間、土砂降りの雨が地面を暴力的に叩きつけた。
一九六六年某日。人工降雨テストは成功したかのように思われた。
ノックス社の社長と主任研究員であるウォルター・ボイドは、呼び出しを受けてペンタゴンの一室にいた。
ウォルターは、その場に自分がいることが場違いに思え、落ち着かない様子だった。目の前にいるのは、国防長官、統合参謀本部議長、空軍長官という顔ぶれだ。本来ならばマーシャル博士が同席すべきだと思った。
「この結果は、どう解釈したらいいのかね」
統合参謀本部議長が口を開いた。その声には不満と不信感、そして苛立ちが混ざっていた。統合参謀本部議長が聞いているのは、数時間前にベトナム上空でC130A輸送機が行ったシーディングの結果についてである。
シーディングは、雲の種まきと言われる人工降雨技術であり、もともとは農業用に開発されものであった。広大な畑が多いアメリカの農業は、ホースやスプリンクラーなどの給水ではとうてい追いつかず、大部分は自然の恵みである雨に頼っていた。しかし、自然のちょっとしたいたずらが収穫量を大きく左右し、アメリカの農業は運に頼ることが多かった。
一九三〇年代、アメリカは史上最悪の干ばつと言われるほどの雨不足に悩まされた。農業は甚大な被害を受け、人々は飢饉に見舞われた。その記憶が忘れ去られようとしていた一九五〇年代、アメリカは再び大干ばつに襲われた。降水量の減少は農業にダメージを与え、農業ばかりでなく、アメリカ経済にとっても深刻な問題になった。人工的に雨を降らることはできないかという考えが生まれたのは必然的なことだった。
ノックス社は農薬製造業として出発した中小企業だが、農薬開発技術が進歩して価格競争になったとき、競合他社に勝てるほどの生産力を持っていなかった。技術の進歩と価格競争はノックス社を窮地に追い込んだ。そんなときに目をつけたのが人工降雨分野への参入だった。当時はまだ人工降雨を行う企業は少なかった。しかも、雲の中に粉砕したドライアイスを散布するだけというお粗末なもので、その効果を疑問視する声も多かった。
しかし、一抹の望みを託して試みる農家も少なくなかった。競争相手が少なく、技術開発も進んでいないが、高いニーズがあった。未知の分野だけにリスクも大きいが、成功すれば長期にわたって莫大な利益をもたらす可能性を秘めていた。
困窮していたノックス社は賭けに出た。大学で化学の教鞭を執っていたマーシャル博士を引き抜き、人工降雨技術の研究に着手した。
マーシャル博士は、ドライアイスによって大気を冷やし、さらにそこに何かを加えることで、より確実に水滴を作ることができると考え、あらゆる組み合わせを試みた。研究室において実験は何百回となく繰り返された。数十センチ四方の水槽のような容器の中で、ドライアイスと組み合わせる物質を探し出すという単純な作業だった。その退屈で途方もない作業を担ったのがウォルターだった。マーシャル博士が組み合わせの対象物をリストアップし、ウォルターは指示に従うだけだった。
三百七十二回目の実験で、ヨウ化銀を使用すると水滴ができやすいということを発見した。
ヨウ化銀溶液とドライアイスを雲の中に散布することによって、周囲の水蒸気が氷結して凝結核ができる。この凝結核が種(シード)となって水滴を形成して雨になる。これがノックス社が開発した人工降雨技術だった。
だが、一度目のシーディングの後、雨は一滴も降らなかった。実験室や理論上では上手くいっても、現実では良い結果を得ることができなかったのである。
そして今回、確証の持てないまま二度目のシーディングが行われた。
「豪雨が結果を示しているのではないでしょうか」
ノックス社のボーゲン社長が穏やかな声で応じた。
「ベトナム特有の単なるスコールではないのかね」
「それも否定することはできません。しかし、そうでないと否定することも難しいでしょう」
統合参謀本部議長は質問しておきながら、さほど関心なさそうにデスクの上に置かれた資料をめくっていた。ウォルターは、自分に質問を向けられないことを願いながら、統合参謀本部議長同様、資料に目を通すふりをした。
しかし、その行為は無駄だった。
「ボイドくんだったかな。きみはこのことをどう考えているか聞かせてくれ。これ以上続ける意味があると思うかね」
空軍長官がウォルターに矛先を向けた。ボーゲン社長に聞いても埒があかないと思ったようだ。
ウォルターは、何と答えたらよいのか検討がつかなった。確かに人工降雨の実験に参加し、実験室において水滴が作り出される瞬間を見ていた。もちろん内容も充分に理解している。しかし、これほどまでに大掛かりな実験を続けるかどうかについて意見を求められても答えようがなかったし、一民間人が答えるべきことでもないとも思った。
ウォルターは、こんな所に連れて来たボーゲン社長を恨んだ。国防総省の首脳メンバーから民間企業の若き一研究員である自分が意見を求められるとは夢にも思っていなかった。それに、この場に相応しいのは自分などではなく、マーシャル博士のはずだ。
「ボイドくん、きみの考えを述べて構わないんだよ」
ボーゲン社長はウォルターを促した。ボーゲン社長は自分で答えるつもりはないらしい。
ウォルターは、この部屋の中では誰一人として味方がいないことを悟った。
ウォルターは、社長からペンタゴンに同行して欲しいと頼まれたときのことを思い出していた。
———私は、これからは頭の柔らかい若い人間がどんどん活躍すべきだと考えている。なに、そう萎縮することはない。マーシャル博士には私からよく話しておくので心配はいらん。私もマーシャル博士も、頭が固くなりかけている。それに、私自身は技術的なことはよく理解していない。専門分野については研究に携わったきみに説明をお願いしたい——。
最初は、マーシャル博士ではなく、自分が指名されたことに驚きを感じたが、ようやく一人前の研究者として認められたという喜びもあった。これから活躍するのは、きみのような人物だと言われたときには、自分でもそんな気がしてきた。
だが、今はそんな気持ちは微塵もなかった。
マーシャル博士は、頭が固いのではなく賢いのだ。うまく言い逃れをして、ここに来ることを拒んだのに違いない。ボイド社長は、責任回避をするために自分を連れてきたのだ。
「実験結果としては成功と言ってもいいのではないでしょうか——」
そう答えるのが精一杯だった。
「これは実験ではなく、実践だ。軍事予算は研究者のためのものではない」
空軍長官は強い口調でウォルターの言葉を遮った。これだから科学者は困ると言わんばかりの勢いでウォルターをにらみつけた。
理論上、そして実験室内においては、この方法で水滴を作ることに成功していた。しかし、実際に空から雨を降らせるには、大量のドライアイスとヨウ化銀溶液、それを散布するための装置を積み込んだ飛行機が必要であり、莫大な費用がかかる。弱小企業のノックス社では、上空での実験を何度も行うことができなかった。実験と言われてしまうと、返す言葉が見つからなかった。実際に、今回のことは、ノックス社にとっては軍の力を借りた実験でもあった。
しかし、お互いさまではないか。
そう言いたかったがウォルターは言葉を飲み込んだ。
米軍はベトナムでの戦いで、当初の予想以上に苦戦を強いられていた。中国やソ連からの豊富な軍事物資は、ホーチミン・ルートを通って、南ベトナム民族解放戦線(NFL)・北正規軍に運ばれ、共産側はアメリカ・南ベトナム政府軍と同等もしくはそれ以上の優れた兵器を有しているだろうと報告されていた。
『ホーチミン・ルートを潰せ』
これが、米軍の最優先事項になっていた。
ホーチミン・ルートは、南北に細長い両ベトナムをつなぐルート。山岳地帯を通過し、千キロメートルを超える補給路である。三本の主要ルートと無数の小道はジャングルを縫い、ゲリラ側の身を守ると同時に大量の軍事物資を各基地に供給することを可能にしていた。
米軍は、このホーチミン・ルートを断つことが勝敗を左右するとして重視していた。その役目は主に空軍が負っていたが、決定的な打撃を与えるには至っていなかった。それどころか、密林でのゲリラによる襲撃と、途絶えることない物資や兵器が米軍を窮地に追い込んだ。戦争史に残る事実である。
せめて雨季が長引いてくれさえしたら——。
国防総省内では、誰からともなく、運を天に任せるような考えが頭をよぎっていた。
一方、ノックス社では、独自開発した人工降雨技術の効果を世間に証明したがっていたが、その費用の目処がたたずに困窮していた。ノックス社には、大掛かりな実験を行う体力がなかった。社長のボーゲンはチャンスを求めていた。
国防長官は、航空会社エア・スカイの元重役から政界入りして現職についた異色の人物として知られていた。ボーゲン社長とは古い友人であり、ペンタゴン入りしてからも二人の親交は続いていた。
人工的に雨を降らせ続けて雨季を引き伸ばし、敵の輸送ルートを通行不能にする。
コードネーム『プロジェクト・ポパイ』は、国防総省と民間企業の利害が一致したところから始まったトップシークレットの作戦である。
人工降雨技術を軍事戦略に利用することは、ノックス社にとって本来目指すべき方向性とは違っていたが、またとないチャンスでもあった。実証できればノックス社の人口降雨技術は全世界から注目を浴び、農業に革命をもたらすことになるだろう。それが証明できるのだ。しかも思わぬ副産物も手にできる可能性もあった。農業よりも軍事産業の方がはるかに市場が大きいことは、歴史上明らかなことだった。
「最後まで話を聞こうではないか」
この部屋に入ってから、初めて国防長官が口を開いた。
「先を続けてくれ。本音を言ってもかまわん」
ウォルターは、ボーゲン社長の顔色を伺った。助け舟を求めるためだったが無駄だった。ボーゲン社長は無表情に肯いただけだった。
「一度や二度の実験では——」
そこまで言いかけ、ウォルターは言い直した。弱気になったら、つけこまれるだけだ。窮地に追い込まれたときこそ、堂々として振る舞わなければならない。
「わずか二回の結果から判断することは難しいと思います。科学的な確証を得るには、何度も繰り返し実証実験行わなければなりません」
ウォルターは勇気を振り絞り、きっぱりと言った。
「きみはこのプロジェクトに空軍の優秀な人員と大切な輸送機をどれだけ割いていると思っているんだ! お遊びに付き合っている暇はない」
空軍長官は椅子から腰を浮かし、大声で怒鳴り、ウォルターを睨みつけた。ウォルターの言い方が、空軍長官の反感を誘ってしまった。どうやら空軍長官は、国防長官から押しつけれたこのプロジェクトが気に入らないらしかった。
国防長官が、手で彼を制した。空軍長官は浮かしかけた腰を椅子に沈めた。統合参謀本部議長は、相変わらず資料に目を落とし、ことの成り行きを傍観していた。
「続けるべきだと考えるのかね?」
ウォルターは、国防長官の質問に答えかねた。自分の答えが、国防省の首脳たちの判断材料になると思うほどうぬぼれてはいなはいが、責任をなすりつけられるのはご免だと思った。役立たずと罵られようが、社長の面目を潰してしまうことになろうが、ここは黙っているのが賢明だ。ウォルターはうつむいて沈黙を守った。とんでもないことに巻き込まれてしまったと後悔するには遅すぎた。孤立無援の状況の中、ウォルターの心は不安と怒りが渦巻き、世間知らずで浅はかな自分をののしった。
国防長官が大統領に呼ばれたことによって会合は解散になった。ウォルターは脇の下にびっしょりと汗をかいていた。
米軍はホーチミン・ルートを潰すために、あらゆる作戦──密林を枯死させ、ゲリラの隠れ場所と農業基盤を壊滅するための枯れ葉剤の散布や、数百個の子爆弾を内蔵したナパーム弾の投下などを行った。
『プロジェクト・ポパイ』は、米軍の複数の作戦のひとつとして続けられることになった。
米軍は考えられるあらゆる作戦を試みたが、ベトナム戦争は多くの犠牲者と深い傷を残したまま、一九七五年に終結した。
一九七七年、ニューヨーク・タイムズは、ベトナム戦争において米軍が気象操作を行ったという『プロジェクト・ポパイ』についての記事を掲載した。情報源は関係者筋。記事には、シーディングを二千六百回以上も行ったという詳細までもが記されていた。
このことは、世界中の科学者や見識者たちからの批判を集めることになった。
『気象操作は、地球環境を破壊する恐れがある』
『自然を操ることは、人類がしてはならないことである。それは神を冒涜することにも等しい』
ニューヨーク・タイムズに掲載された記事が発端になり、翌年十二月に行われた国連総会において、軍事目的での気象操作が正式に禁止された。
その後、気象操作技術は、自然災害から守るためという名目のもと研究者たちの間だけで受け継がれたかのように思えた。米軍は気象操作に一切関与しないと明言したが、約束が破られるのに、それほど長い時間はかからなかった。