#1 はじまり【いなかったはずのあなたへ】
「その奇跡みたいな時間、私の分も、大切に過ごしてよね。」
彼女は寂しそうに、でもいつものいたずらっぽい目で笑って言った。
日常
私はあの時期、うんと時間があった。
実家暮らしの大学2年生で、夏休みだった。
そして気楽だった。両親は元々放任主義で、
夫婦で旅行三昧、よく留守だった。
私は元々よくしゃべるタイプではないし、
1人で気ままに過ごす時間が好きだった。
うちは元々この街でも有数の商家だったらしい。
今でもその名残で実家の敷地は広く、築100年を超える母屋と別館、
今は誰も使っていない物置蔵をもってしても場所は余っていた。
別館に私の部屋はあった。
宿題をひと段落させて、早めの昼食を作りに母屋の方に急いだ。外は暑い。
母屋の玄関の扉を開けた。冷房の効いた風が入ってきた。
「トーストしたパンあるわよー。食べる?」
母の声が奥から聞こえた。知らないうちに旅行から帰ってきていたのだ。
「早かったね。パパは?」
リビングに入るとダイニングテーブルにタイ土産を広げている母がいた。
「ちょっと会社の方見てくるって。オーバーナイト便帰りなのにほんと元気よねぇ。」
母は見知らぬ包装の小包を私に向けて掲げて、
「このお菓子美味しかったのよー。結佳も食べなさいね。」
私はキッチンカウンターに寄りかかり、うなずいた。
母は広げたお土産を見て満足気に微笑み、
「パンはキッチンにあるからねー。ママは部屋で休むわ。もうくたくたよー。」
と楽しそうにリビングを後にした。
「おやすみー。」
と私は母の背中に声をかけながら、トーストを探しにキッチンに入った。
ニュース
テーブルのお土産たちを少し端に寄せ、皿にのったトーストを置いた。
テレビをつけ、パンをかじる。
本当はもっとしっかりしたご飯を食べるつもりだったけど、あれだけパンを買われてしまったら食べるしかない。
ほとんど1人暮らしのパン消費スピードと賞味期限が追い付かない。
テレビに映るニュース番組では、最近話題のニュース特集をやっていた。
「さて、ここからは今注目の集まる時間研究の最前線をお伝えします!」
アナウンサーの声がリビングに響いた。
ここ最近の時間研究は目覚ましい発展を遂げていた。
時間研究は要するにタイムマシンの開発だ。
最近ではタイムマシンのプロトタイプ完成もあと数年で可能になるのではないかと言われている。
若いニュースキャスターが司会者に向かって、
「タイムマシンが本当に完成したら素晴らしいですね。
田中さんはもし過去・未来に行けるとしたらいつに行きたいですか?」
「そうですねー。」
パンをかじりながら私は、
「私だったら21年前に戻って両親が結婚するのを防ぐかな。」
とつぶやいた。
私は、人生に対して少し悲観的だと思う。
特別嫌な経験をたくさんしたわけではないが、
いつからか、別に生まれてこなくても良かったな、
と思うようになっていた。
この世界に生まれてくることは辛く長い人生の始まり、と
思ってしまうのである。
パンの賞味期限の脅迫観念にかられ3枚のパンを食べた私は、
テレビを消し、別館に戻った。