私のライター歴。表現の自由の名の下に。
ライター、随筆家、文筆家、物書き、
呼び方は色々とあれど、
私は言葉を書く人である。
それと同時に、
文化哲学を学んでいる思想家であるとも
思っている。
哲学をやっているとすぐに、
単語の定義付けをしたくなってしまうので、
ライターとはそもそも一体
どういう属性のものなのかを、
はっきりさせたくなるのだけれど、
単に言葉を書く人という定義で言えば、
私は物心ついた時からライターだったと思った。
一般社会の定義でいう、
職業的な意味でのライターならば、
以前に、
ヨガ情報メディア系の(おそらく)最大手にて、
記事ライターをしていた時期がある。
2016年のことなので
随分昔ではあるが、
その時には単に、
自分が学びインプットしたヨガの知識をまとめ、
記事として納品する、ということをやっていた。
締切もゆるく
自分の勉強にもなるし、
不満は少なかったけれども、
やりがいがなくて辞めてしまった。
一般的に、
大きな企業や組織メディアの中でライターをする際、
情報を届ける相手は
不特定多数が見込まれるので、
情報の内容はメインストリーム寄りに
ならざるを得ない。
それが私は楽しくなかった。
誰でも書けるような記事を、
当たり障りない表現に限定して、
斬新な意見や奇抜な思想を断定肯定するのを避けながら
言葉を紡ぐことに嫌気がしていた。
私はもっと、
自由に表現したいんだと思った。
長らく、
もう本当に長い間、
私が自由に言葉を紡いだのは、
自分のノートの中と、
しっかり鍵をかけたTwitterの中だけだった。
芸能人やインフルエンサーが
私と似たような死生観や社会に対する想い、
個性的な表現をぶちまけては叩かれ、炎上し、
そのたびに私は臆病になっていた。
終わろうか、もう終わろうか。
自分の表現に制限を設けるのはもうやめよう。
ここでは私は自由に綴ろう。
社会の体裁を気にすることなく。
他者からの好き嫌いに自分を寄せることなく。
表現の自由という名の下に、
わたしという一個人が、
思想や世界観をぶん回しながら、
存分に言葉あそびを謳歌する。