170.筋肉痛から、当たり前の変化を学んだお話
久々に、野球をしました。
今回はあまり打てませんでしたが、よく投げました。
大学は二回生の終わりから学生コーチという、練習を手伝う立場に代わり、当時毎日バッティングピッチャーを務めて、本当に信じられないぐらい投げまくっていました。
全力投球ではないので、日々200球ぐらいだったら肘や肩は一度も痛めたことがないという比較的綺麗な投げ方を身につけています。
肩は弱いのですがコントロールには自信がありました。
今回も、7年前の動きを覚えていて、同じような感覚で投げることができました。
毎日何百球も投げていたら、さすがに今でも身体が覚えているんですね。
セットポジションから、短く息を吐いて、左足を上げる。
ボールを持つ右腕には全く力を入れず、左手のグローブは真っ直ぐ投げる先に向ける。
それでコースが決まる。
指から離れるその一瞬だけ力を入れる。
そのタイミングで高低を調整する。
9割はストライク投球で、初心者の友達も打っていて、良かった、と思いました。
試合も白熱して、めちゃくちゃ楽しかったです。
問題はここからでした。
筋肉痛がすごい
シンプルに。
身体のあちこちが痛い。
くしゃみをすれば響く。
こりゃひどい。
過去あんなに投げていたのに。
身体では感覚を覚えていて、ストライク投げることは簡単にできたのに。
ハードウェアとなる身体そのものがもたなかった。痛い。
そう思うと、なんだか不思議でした。
人生でボールを投げてあちこち筋肉痛なんてことは一度も起こらなかったからです。
僕の学生時代の当たり前は、ボールは100球も200球も投げるし、バットだって500回ぐらい振る。
野球は主に回転運動ですが、それを繰り返すことによる筋肉痛は一切なくて。
ただ、今も感覚はあるんです。
実際にやってみたら、まあストライクは入る。
ちょっとしたコースの調整も、ボールが指先を離れる感覚も、こう体重が移動したらこの辺に投げられるな、みたいな懐かしい感覚はある。
傍目にはわからない。投げてるし。ストライク入るし。
ただ、僕の中では、あの頃の僕とは全然違う、と感じる。
現役度が足りないのです。
僕の中で、当たり前が変わっていました。
頭でわかっていることと、実際にやってみることは、天と地ほども違うのです。
今の当たり前がどこにあるのかを把握すること
これは野球だけの話ではないなぁと、身体に痛みを覚える度に思います。
当たり前は、変わるのです。
小学生の頃、夏休みは毎日ラジオ体操に行ってました。
大学生になってあんなに早く起きる夏休みの朝があったでしょうか。
高校生までは、決まりきった時間に授業があり、部活がありました。
大学生は自由に決められます。
そして、会社員になると元に戻ります。
ただ、起業家やビジネスをしている人は違います。
時間という概念も、働くという価値観も、責任という言葉の意味も、何もかもが違う。
小学生と大学生の感覚がまるで違うように、社会人だって会社員、起業家、芸能人、プロアスリート、年齢に依らないたくさんの感覚を持った人たちが、るつぼのように混在して生きています。
14年間野球を続けても、6年間ブランクが空くと身体は痛みます。
偉そうに投げ方はこう、振り方はこう、と論じても、身体が追いつかないのです。
今の僕の野球の当たり前は、高校生より長く野球をやってきましたが、本気で取り組んでいる高校球児の野球の当たり前と、やっぱり違うのです。
野球の当たり前。
仕事の当たり前。
好きの当たり前。
生き方の当たり前。
価値観や、考え方の、当たり前。
今、その当たり前はどこにありますか?
そして、どこへ向かいたいですか?
何かを変えたかったり、何かを達成したかったりするときに大切なのは、やることを変えるだけじゃ足りないのです。
当たり前を変えるのです。
じっくりと。じわじわと。
その世界の人と触れることによって。
身体の痛みのように、何かしらに対して負荷をかけながら。
さて、この筋肉痛は、何日で治まるかなぁ。
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