310.称号があなたをスーパーマンにするわけではない
勘違いしてはいけないな、と最近自戒することがあります。
肩書や経験だけで、自分の実力を見誤ってはいけない、と感じることがあります。
あなたの成長は、成果は、世界に対する戦闘能力は、何で測れるのでしょうか。
きっと他の何物でもない、それは数字だと思うのです。
自己啓発本を読んだからといって聖人君子にはなれない
自己啓発の本やセミナーに触れた後の自分は、何か上手くいきそうな感覚を覚える人も多いでしょう。
プロの技術に触れて、可能性を見出し、自分もできると気が大きくなるのです。
それ自体はいいことだと思います。
できると思って物事に取り組む方がよっぽど生産的なはず。
一部の人しか経験できない場を経験したから、何かしらの勲章や評価を得たから、めちゃくちゃ衝撃的な学びを得たから……現象だけでは自分が変わった証拠にはなりません。
変わったかもしれませんが、自分以外にわかりません。
僕も経験することはだいぶ増えてきました。
人よりもある程度の量の仕事をこなしている自覚はあります。
ただ、自分の実力は何で測れるのでしょうか。
ふと気づきました。
やっていることは増えたしできることも増えた。
得られる情報も増えたし、人のつながりも増えている。
では、自分の生活は大きく変わっただろうか。
周りばかり変わって、本当の自分自身はどうだろうか。
そんなことを思います。
勘違いしてはいけません。
何かを知り、経験し、学んで実践したとして。
それは本当に、世の中で通用する自分なのでしょうか?
フェアな物差しの存在
数字と一言で表してもいろんな数字があります。
何でもいいわけではありませんが、一つわかりやすい数字の代表はやはり「収入」でしょう。
世の中への貢献の対価だと思っています。
が、収入だけで自分のすべてを表せるかというとそうでもないような気もします。
しかし、占める割合は大きいとも思います。
楽して稼いでいる人がいるというのはまあほぼ幻想で、ほとんどの人は良し悪しは置いといて努力しています。
つまり収入は、割と適正に努力量と努力の方向性を評価している物差しになり得ているようにも感じます。
努力の方向性については追々どこかでまた記事にしましょう。
収入以外には、一緒に汗をかく仲間的な存在や、手を組んだ人や組織の数は、自分という人間の魅力を測る指標の一つになり得るかもしれません。
中途半端にできたから、勝手がわかったからといって、マスターしたとは言えないですよね。
学ぶことも、収入を追いかけることも、もちろん大事です。
何を豊かと感じるか、何を豊かにしていきたいか、それ次第で人生の方向性は変わっていくかもしれません。
願わくば、数字を追いかけるその自分自身が、義理人情に溢れ信念を貫く自分であるように。
せめてその称号に見合う、自分で在り続けたいものです。