462.願望に生きる
まるで、願望に突き動かされるように。
そんな風に行動したいし、日々を生きていきたい。
宝くじに当たりますように、みたいな話ではない。
本当はどのように生きたいのか。
本当に願い、望んでいることは何なのか。
きっとわかっているはずだ。
願望は「有無」ではなく「開閉」なのだから、まず全人類に存在していると考えてもいい。
何を求めているのだろうか。
何を望んでいるのだろうか。
本当はどうしたい、どうなりたいのだろうか。
きっと現代は、そんな自己実現可能な生き方の黎明期を迎えている。
それぐらい、本来人生というものは、我々の選択肢というものは、自由なはずである。
後天的な努力で変えられることは増えてきている
少し時代を遡れば、今よりもよっぽど窮屈な生き方を強いられていた時期があったはずだ。
もう少し遡ると、武士の家に生まれた者は武士になり、商人の家に生まれた者は商人になる。
戦国時代は国や名誉のために戦い命を落とす人が無数にいたことだろう。
今はどうだろうか。
幸い日本という国は、いきなり出兵だの戦いだのに巻き込まれることはなくなっている。
生まれの差は多少あるかもしれないが、それ以上に様々な分野でチャンスも増えている。
自分自身ではどうにもできないようなことが、時代を経るごとによって少なくなってきているように感じる。
後天的な努力で、ある程度自由に生きることができるようになってきているはずだ。
そうじゃない人ももちろんいると思う。
だが、傾向としては上記の通りだと思う。
終身雇用もない、転職、起業が当たり前になる、何が本当のリスクなのかが人々に浸透してくる、その未来はすでに来ていて、そしてこれから訪れる。
実はこの人生は、最初から決められていることが思いの外少ないのだ。
意外と自分で決められることは、数多くある。
自分以外の何かを言い訳にするな
自由だといっても、自分で決められるといっても、状況や周りの人の影響でそううまくはいかないという人もいるかもしれない。
それを否定するつもりはない。
ただ、それは本当なのだろうか、とも思う。
本当に他人のせいなのだろうか?
本当に周りの環境のせいなのだろうか?
自分がその場にい続ける理由、言い換えれば言い訳にしているに過ぎないのではないだろうか。
自分が自由に人生を選べないのは、本当にその人のせいなのか?
本当に勤めている会社が、遠くに住む家族が、自身の年齢が、原因なのだろうか?
まあそこまで望んでいるわけでもない、願望は必ずしもそこまで大きいものでなくても大丈夫だ、と自分で自分の自由さを狭める選択をしている人もたくさんいる。
否定するつもりはない。
ただ、本当にそれでいいのだろうか、と憂うことはある。
願望とは、願望ではなかったということなのだろうか。
宝くじに当たればいいなぁ、みたいな程度だったのだろうか。
自分の人生に真正面から対峙せず、目を向けたくないところに向いていない逃避のような思いを、自分以外の何かに押し付けていないだろうか。
あなたの人生はどうしたいのだろうか。
どうなりたいのだろうか。
それは本当に、何かのせいで何もできないのだろうか。
誰がその可能性を制限しているのだろうか。
世界は解釈次第で変わる。
信じる者が、変えていく。
世界はきっとそうできている。
自分の人生に、責任を持とう。