はじめまして。兒玉遥です。
こんにちは、兒玉遥です。
note始めました。
私の事を知らない方も多いと思うので自己紹介をさせてください。
1996年 9月19日 生まれ(現在24歳)
両親の地元宮崎県で生まれました。
父の仕事の関係で転勤族だったので大分県別府、長崎県佐世保、福岡県京都郡苅田町と九州を転々としました。
1番長く住んでいたのが福岡県福岡市です。
3人兄弟の長女で、弟が2人います。特に「お姉ちゃん」と慕われる事もなく「はるか」と呼び捨てで呼ばれます。
兒玉遥は本名です。
小さい頃から、人前に立つ事、目立ちたがり屋で、表現欲に溢れていました。
幼稚園で演劇の配役を決めるとなると率先して主役希望に挙手するような子でした。
でも人見知りで、グループの和に入るのは苦手。自分からは話しかけられない。誰とでも仲良く!と言うよりは特定の仲の良い子とずっと遊んでいました。
この性格は大人になった今も変わりないと思います。
小学生の頃はファッションに興味があって「学校で1番オシャレでいたい!」というモットーがあり、毎日のお洋服選びを楽しみにしていました。
中学生の頃はとにかくエネルギッシュ!
バスケ部に入り、素敵な顧問の先生に出会い心身共に鍛えられ、勉強も大好きだったので成績優秀(自分で言うな)生徒会では風紀委員長でした。
よし、もうすぐ高校受験。
進学校を目指して受験勉強だー!
そんな時期にこんな知らせが届きます。
「AKB48の姉妹グループのオーディションあるらしいよ!」
父からHKT48一期生オーディションを勧められました。
当時AKB48といえば「ヘビーローテーション」「フライングゲット」の曲でテレビや街で見ない日は無い。みんなが知ってる!
学校でもファンの子が沢山いました。
私はあっちゃん、まゆゆ推しでした☺️
そんなグループに入れるチャンス!!
やるしかない!!迷わず応募!!
そこから、一次、二次、三次オーディションを経て合格。
自分でも驚きです。
受かる自信は全くありませんでした。他のメンバーより歌もダンスも劣っていたのに、、、なんで?と不思議に思っていました。
そして、過酷なレッスンが始まります。
中学校は早退し、ほぼ毎日レッスンスタジオに通いました。
(省略)※レッスンエピソードについては、また需要あれば書きます。
そして、お披露目で歌う「スカートひらり」
はじめてのポジション発表の日。
前田敦子さん、大島優子さんのように真ん中で歌いたい。
目指す場所は、全員ひとつ。
センターポジション。
その為に毎日レッスンを頑張ってきました。
当時HKT48の支配人の佐藤さんがポジションの書かれた紙を持って名前を呼び始めます。
ドキドキと高まる鼓動、、、
レッスン終わり、滴る汗、火照ったメンバー達。緊張感が漂います。
「今回のお披露目曲ポジションを発表します。
センター、、、兒玉遥。」
え、なんで私?何かの間違いじゃない?、、、どうしよう。
喜びより、動揺の方が大きく「なんで私?」という疑問を抱きました。
(前置きが長くなりましたが、、、)
そこから始まった私の憧れの芸能界。
夢いっぱいのアイドル生活。
ファンの皆さんの応援のおかげで、少しずつ確実にグループは大きくなっていきました。
待ちに待ったCDデビュー。
HKT48 NHK紅白歌合戦出場。
AKB48選抜総選挙9位。
活動して早5年、、、。
二十歳を迎える成人式を終えた頃。
さぁ、これから!と意気込んだその時、、、
ドクターストップ。
“躁うつ病” と診断され休養。
これが二年間休養の理由でした。
煌びやかな夢のステージで歌い踊り、有名になるのに反比例して、私の精神は少しずつ擦り減っていったのです。
原因は色々な要素がありますが、不器用な性格が大きかったと思います。
この告白をする事、凄く迷いました。
アイドルはいつだってポジティブで元気に明るくみんなに笑顔を届ける存在でいなくちゃいけない。
公表していいのかな、、、
何度も葛藤を繰り返し、それでも告白しようと思ったのは、アイドルを卒業し、女優になった今、少しでも同じ病気で悩んでいる人の力になりたかったからです。アイドルだって1人の人間、皆さんと同じです。
病気と向き合っていたあの時「大丈夫だよ」と誰か味方になってくれる人が欲しかった。希望を持ちたかった。
このnoteが皆さんの背中をそっと撫でられる、そんな記事になったら嬉しいです。
これからは、”アイドルの光と影”、回想エピソードや”躁うつ病との向き合い方”などを詳しく記事にしてしたいと思います。
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また会いましょう。
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