【短編小説】迷信女と風男
「目が潰れますよ」
女は言った。
洋介(ようすけ)は驚いて、アクリル板の向こうの女の顔を見た。ほとんど口も利いたこともない、一年先輩社員である笹野千鶴(ささのちづる)の目線は、数秒前に洋介が落とした米粒の塊に注がれていた。
「え」
言いかけた洋介を笹野千鶴は無視して、俯いて手作りらしき弁当を黙々と食べた。隣のテーブルの同僚たちが、くすくす笑うのが聞こえる。
「あいつ、迷信女だから」
食堂を出た廊下にある自販機の前で、同僚の男たちは肩をすくめて笑った。
「どういうこと? 目が潰れるって」
ボトルのコーヒーを手に、洋介は困惑して尋ねる。
「迷信。聞いたことない? 米粒を落とすと、目が潰れるんだって」
缶コーヒーを啜りながら、同僚たちは笑う。
「有名だよ。笹野千鶴。迷信女って」
「迷信女?」
洋介が眉をひそめると、同僚たちは楽しそうに笹野千鶴が持つ「迷信女」エピソードを語った。
「朝に靴紐が切れたから、欠勤したって」
「財布にはガビガビになった蛇の抜け殻が入ってるらしい」
「黒猫が目の前を横切って、不吉だからって早退したんだって」
「三人で写真を撮るとき真ん中に入れたら、泣いて嫌がってやんの」
「電子レンジの前ではアルミホイルかぶってんだって」
洋介は、「へえ」「へえ」と、どこか感心しながらそれらのエピソードを聞いていた。同僚たちと同じように肩をひそめて笑おうとしたに、できなかった。
靴紐が切れたら外出してはいけないのか。蛇の抜け殻をなぜ財布に入れるのか。黒猫が目の前を横切ると、良くないことが起きるのか。
洋介はそれらの迷信を全く知らなかった。同僚たちが馬鹿にして笑っているのだから、きっと知らなくてもいいことなのだろう。
しかし、洋介はその日から、笹野千鶴のことが気になって仕方なくなった。千鶴が知っていて、洋介が知らない、奥深い世界のことが。
*
東京都の外れにある住宅リフォームを請け負う会社に、洋介は新卒で入社して五年になる。
最初の二年は毎日出社して、先輩社員たちに営業に連れまわされ、リフォームを検討している家にカタログを持ってあちこち足を運んだ。
が、ここ二、三年は感染症の流行で在宅勤務が続き、ほとんど出社もままならなかった。
ようやく感染症の流行もおさまり始め、今年の四月からまともに出社できるようになった。食堂と呼ばれる小さな会議室のテーブルで、アクリル板越しではあったが、洋介は初めて千鶴の存在を意識した。
外回りの仕事が大半だった洋介は、千鶴だけでなく、内勤で事務仕事をこなす女性社員たちのことをほとんど知らなかった。しかし、「迷信女」として意識し始めた途端、千鶴は他の女性社員たちとは違う、際立った存在として洋介の目に写り始めた。
ぎゅっと両目をつぶったままコピーを取っている千鶴を見た時、電話をかける前に手のひらに「人」という字を三回書いて飲み込む仕草をしている千鶴を見た時、洋介の胸には不思議な温かさが到来した。
それをどのような感情として分類して良いか分からずに、洋介は戸惑った。ただ一つ言えるのは、他の同僚たちが抱くような、千鶴を小馬鹿にする気持ちとは全く違うことは確かだった。
電子レンジの前でアルミホイルをかぶるようなとんでもない女を、なぜこの会社は雇っているのかと洋介は疑問にも思ったが、謎はすぐに解けた。
ある時、電話対応をしている千鶴の声が耳に入った。
「その日は先勝なので、お引っ越しをされるなら午前中が良いかと思います」
「センショウ」という言葉を、千鶴は滑らかに口にした。思わず、デスクのカレンダーを見た。「先勝」「友引」「赤口」。小さい頃から目にし続けているそのワードの意味を、洋介は考えたこともなかった。そのことに気づいた時、軽い衝撃さえ受けた。
時代に合わせ、バリアフリーへのリフォームに力を入れ始めた洋介の会社には、高齢者からの電話が多くかかってきた。
そんな時、千鶴は電話口でのんびりとした口調で、
「次のダイミョウニチは九日ですから。その日に施工できたら、とても縁起が良いですよね」
「その日は大安で、しかも寅の日ですよ。お客様、とても良い日を選ばれましたね」
などと、洋介が聞いたことのない、だけど高齢者が喜ぶワードを口にし、すっかり客が上機嫌で乗り気になった状態で、営業担当に電話を繋いでくるのだった。
「ダイミョウニチ」「ジュウニチョク」「ニジュウハッシュク」。
洋介が知らない、しかしこの国に古くから存在し、その日の運気を予言するらしいそれらのワードを、千鶴はスラスラと口にした。驚いている洋介を見て、隣の席のベテラン社員、多田がささやく。
「意外と便利なんだよ。笹野さん」
まるで家電のような言い方で、多田は千鶴を評した。
「最近は年寄りの客が多いから。みんな気にするのよ。暦(こよみ)とか。縁起とか。笹野さん、なんでも知ってるからね」
「迷信女」と千鶴のことを笑っていた同僚たちも、この時ばかりは居心地悪そうにもぞもぞと椅子に座り直していた。淡々とパソコンを叩く千鶴の膝には、裏面がアルミになったキャンプ用品のような分厚い毛布が乗っていた。電磁波が子宮に蓄積するのを防ぐため、だとか。
洋介の中で、確信が生まれる。千鶴に対して抱く感情の正体。それは、尊敬だった。
洋介が、子供の頃からずっと、知りたくてたまらなかったことを、千鶴は知っている。子供の頃から、意図的にと言ってもいいくらい、洋介から強く遠ざけられていたこの世界の裏側に確かに息づいている物語を、千鶴は知っている。
ゴミ箱に捨てられた四葉のクローバーを思いだして、洋介の胸が密かに痛む。
だから、給湯室で一人でいる千鶴を見た時、洋介は迷わず足を踏み入れていた。
千鶴は電子レンジを使わず、わざわざ自宅から湯煎機という謎の四角い鍋のようなものを持ち込み、そこに熱湯を流し込んで弁当を温めていた。
「笹野さん」
話しかけた洋介を、千鶴は不思議そうに見上げた。近くで見ると、目が大きく、齧歯類のような大きな前歯をしていて、小動物的な可愛らしさがあった。
「ハックちゅん」
話しかけようとしたのに、意図せずくしゃみが出た。突然のことなので、抑えられなかった。
「誰かが、噂してるのかな」
照れ隠しに鼻を啜りながら、笑う。迷信の話をすれば、千鶴が喜んでくれるかと思った。このくらいの迷信なら洋介でも知っている。誰かが噂話をしていると、くしゃみがでる。
「一回は」
千鶴はお湯の中に浮かぶピンク色の弁当箱に目を落として、小さな声で言った。
「え?」
「くしゃみ。一回は、褒められている証拠です。二回は悪口。だから、大丈夫ですよ。誰かが褒めてるんですね、きっと」
それだけ言って、袖をまくり、お湯を捨て、濡れた弁当箱を取り出した千鶴を見て、洋介は確信した。自分はこの女が好きだ、と。
*
千鶴と付き合い始めてすぐに、正解だったと洋介は確信した。彼女の生活は確かに迷信に縛られていたが、決して不幸ではなかった。むしろ、幸福に満ちていた。
「美人の子が生まれるように」と、千鶴は毎朝早起きして、這いつくばってトイレを掃除した。ピカピカに磨き上げられた便器が輝き、四方に守り神のように盛り塩が置かれ、玄関には不幸を跳ね返すという正方形の鏡が置かれた千鶴の家には、一切の不幸も入る隙はなさそうだった。
彼女の日常には、信仰があった。特定の神を信奉するものではない。千鶴は、万物に敬意を払い、祈りを捧げていた。
毎朝、昇る朝陽に向かって手を合わせ、雨の日には窓辺にてるてる坊主を飾った。雨上がりに虹が出ると、「やった! 虹を見ると幸せになれるんだよ」と笑った。
金をかけてバックやアクセサリーなどプレゼントしなくても、虹を見ただけで「幸せ」と笑ってくれる千鶴を、洋介は心底愛おしく思った。
「朝の蜘蛛は親の仇でも生かせ」と、遅刻してでも蜘蛛を追いかけ、丁寧に紙に包んで外に逃した。洗濯物は、正座して丁寧にきっちりと折り目をつけて畳んだ。「死後の世界で、体が曲がらなくなっちゃうからね」と、千鶴は言った。
共働きで忙しく、帰宅はいつも夜の八時近くで、乾燥機の衣類をそのまま引っ張り出し、洋介に着せていた母親を思い出す。乾燥機から出たばかりの、温かいパジャマのごわごわした感触を、今でも覚えている。
洗濯物を畳まずにそのまま着ていた母親は、果たして死後の世界で本当に体を曲げることができなくなるのだろうかと、洋介は考える。
何より洋介の心を射止めたのは、千鶴の食に関する「迷信」の知識だった。
「初物(はつもの)を食べると寿命が七十五日のびるんだよ」
と千鶴は言って、鰹(かつお)の刺身を出してくれた。付き合ってまだ一ヶ月も経たない、初夏の夜だった。
「初鰹(はつがつお)はね、女房を質に入れてでも食べろって言われてるんだよ」
初鰹なんか、意識して食べたことがなかった。というか、魚にまで旬があることを、洋介は知らなかった。一人暮らしをしていたので、果物や野菜に高い時期と安い時期があることまではなんとなくわかっていた。しかし、魚まで季節に左右されていたなんて。スーパーで寿司のパックを買っても、三百六十五日、同じ値段だったから気がつかなかった。
千鶴がわざわざ有名な魚屋にまで行って買ってきてくれた初鰹の刺身は、ねっとりして脂がのり、驚くほど美味しかった。鰹特有の血生臭ささえも、旨味に感じられた。醤油もわさびも生姜も準備したが、つけるのも惜しいくらい、鰹そのものがおいしかった。
小暑には鰯(いわし)、立秋にはなす、白露にはさつまいも、秋分にはさんま。二十四節気と呼ばれる季節が日本にあり、どの季節にも旬の食材があった。千鶴は旬の食事を食べると風邪をひかない、その季節のあいだずっと元気に過ごせると言って、洋介のワンルームマンションの一口コンロしかない狭いキッチンで、せっせと手料理を作ってくれた。
旬の食材はどれも艶々と輝き、甘く、みっちりと実がつまり、快い歯応えがあった。食べるとまるで栄養の塊を体に入れたように、力がみなぎった。反対に、旬を過ぎた食材は色褪せ、苦く、実がすかすかになり、口の中でぬるりと溶けた。
旬の食材を、日本の四季を、先人たちの知恵である「迷信」を知らずに二十八年間生きてきたことが、洋介はショックだった。
子供の頃から、そんなふうにして育ってきたのだ。母親を責めるつもりはない。仕事で忙しいながらも、朝や週末にまとめて手作りの料理を作ってくれた。が、食卓に並んでいたのは、カレーやスパゲティ、ハンバーグや餃子、唐揚げなど、季節感のかけらもない食事たちだった。
もちろん、洋介が千鶴を愛したのは、単に手料理が目当てだったわけではない。何より彼女は、ピュアで、可愛かった。
「この歯、気になるよね」
千鶴は鏡を見ながら言った。指先で、大きな前歯をこんこんとつついている。
「子供の頃ね、抜けた歯を、投げるの。屋根に向かって。その時にね、「ネズミの歯、生えろー!」って言って投げろって、おばあちゃんに言われて。そうしたら、こんな歯になっちゃったの」
泣きそうな声で、千鶴は言う。思わず笑ってしまう。そんな迷信のせいで、歯の形まで変わることなんかありえない。でも、千鶴はそう信じているのだ。そんな思い出がある千鶴が羨ましかった。抜けた歯をどうしたか、洋介は一本たりとも思い出せない。
千鶴の財布には、同僚たちが噂していた蛇の抜け殻だけではなく、四葉のクローバーも入っていた。ひらりと落ちたそれを拾い上げた時、洋介の胸には苦いものが込み上げる。
もう二十年も前の出来事なのに、洋介はその時のショックを今でも覚えていた。小学生だった洋介が、何時間も自宅の前の河川敷の草むらに這いつくばって、ようやく見つけた四葉のクローバー。洋介は喜び勇んで、その頃、世界の中心だった人、自分にとって最も大切だった人に、それをプレゼントしたのだった。
洋介が差し出した四葉のクローバーを、母親はさも汚いもののように指先でつまみ上げた。直後、叫び声をあげる。
「ばっちい! 虫ついてる!」
四葉のクローバーは、ひらひらと床に落ち、次の瞬間にはゴミ箱に捨てられていた。
「汚い! そんなもの探すのに何時間もかけるくらいなら、勉強した方がよっぽど有益だよ」
母親はさっと身をひるがえし、リビングのテーブルにしつらえたアイマックの透けたブルーの筐体に向き直る。
「四葉のクローバーなんか、迷信、迷信。そんなもので幸せになれたら苦労しないよ」
力任せにキーボードを叩きながら、言う。
「葉っぱなんかに頼らないでも、自分で幸せを掴める人間になりなさい。お母さんみたいに」
かつて捨てられたクローバーが、時空を超えて戻ってきたような気がした。そんなはずはないのに。洋介が拾い上げた四葉のクローバーを、千鶴は大事そうに受け取る。
「これ、小学生の時に見つけてね。それからずっと大事に持ってるんだ。すごいでしょ。もう二十年くらい」
「で、どう」
洋介は尋ねる。
「幸せになれた?」
千鶴は少し考えてから、答えた。
「なれたよ。洋介くんと出会えたから」
洋介は、四葉のクローバーを胸に抱いた千鶴ごと、その体を抱きしめた。
*
「冬至の日にかぼちゃを食べると、風邪をひかないんだよ」
千鶴と付き合いだして八ヶ月がすぎ、季節は冬になっていた。まもなく歳も暮れという十二月の終わりの頃、千鶴は「今日は冬至」だと言って、食卓に奇妙なおかずを出してきた。
冬至かぼちゃ、というらしいそれは、小豆(あずき)とかぼちゃというどちらも中途半端に甘い食材の組み合わせで、一体どんな味なのかと、洋介は恐る恐る口に入れた。が、かぼちゃの素材本来の甘さと、小豆の濃い甘さ、薄くつけられた醤油のしょっぱさが程よく絡まり合い、絶妙な旨味を醸し出していた。何より、旬のかぼちゃというものが、これほどまでに自然に甘く、口の中でほろほろと程よい歯応えでもって崩れていくのに、洋介は感動した。
「うまい!」
感動しながらばくばくかぼちゃを食べる洋介を見て、
「小豆には魔除けの効果もあるからね」
と千鶴は嬉しそうに付け加えた。
その後、入った風呂の湯船には、ゆずが三個、浮かんでいた。これも冬至の習慣らしいが、洋介にとっては当然、初めてのことで、ゆずをどう扱っていいかわからず戸惑ってしまった。風呂の中で食べるのか? と思い、かじってみたが、苦く、酸っぱい。体を洗うのか! と思い、ゆずで体を擦ってみたら、ヒリヒリとしみてしまった。風呂から出てきた洋介からその話を聞き、千鶴は涙を流して笑った。
二人で一つのベッドに入る。シングルベッドは狭いが、おかげでピッタリ体をくっつけて眠ることができる。そのことが幸せでならなかった。暗闇の中で、何時間でも語りあった。
千鶴は末端冷え性の洋介の手を握り、
「冷たい。でも、手が冷たい人は、心があったかいんだよ」
と、繰り返し同じ話をしてくれた。
「ささくれがある」
暗闇の中で、千鶴は探るように洋介の指先を撫でながら言った。
「親不孝をするとささくれができるんだよ」
千鶴の言葉に、洋介はぎくりとする。ごうごうという水の音が、どこからともなく聞こえてくる気がする。川沿いの新興住宅地に建てられた、コンクリート造りの実家を思い出す。
母親のこだわりのデザインで作られた、真四角の要塞のような家。今でも、あの寒々とした川沿いの家にたった一人で暮らしている母親のことを、思い出さずにはいられない。
「洋ちゃんだけじゃないよ。私もほら、ささくれある。親不孝してるからね」
洋介の指先を撫でながら、千鶴は言う。
「親不孝じゃないでしょ。千鶴は」
千鶴の小さな手を握り返し、洋介は言う。
「だって千鶴は、おばあちゃんから教わった色々な知恵を、大事に守ってるじゃん」
「守りたくないんだよ、本当は」
不意に、千鶴が声を裏返した。暗闇の中、その表情はわからない。ただ、何かに怯えるように、しきりに洋介の指先を擦り続けている。
「ねえ、本当はパソコンの電磁波を浴びても子供は作れるんでしょう?」
突如、千鶴は強い口調で言った。どう答えていいか分からず、洋介は言葉に詰まる。
「本当は蜘蛛なんて、朝だろうが夜だろうが、いつだって殺していいんでしょう?」
バチン、と、音が聞こえた気がした。壁に叩きつけられたインテリア雑誌。その下で無惨に砕け散った、小さな黒い蜘蛛の四肢。コンクリート造の灰色の壁に、くっきりと残った命の跡を、眩い朝陽が照らし出している。朝だろうが夜だろうが、あの人は、気に入りの自宅の壁を汚す生き物など全て、容赦無く叩き潰した。
「迷信なんか、知らないで育った方が幸せに決まってる」
吐き出すように、千鶴が言う。千鶴の息が洋介の手にかかり、蒸気のように熱く湿る。
「だって私、未だに夜に爪、切れないんだよ」
パチン、パチン。真夜中。吹き抜けの階段の下から、家中に響き渡る音で、あの人が爪を切っていたのを思い出す。
「さっきの、冬至かぼちゃだって。食べないと落ち着かないの。っていうか、怖いの。食べないと。悪いことがある気がして。冬至かぼちゃを食べなかったせいで、洋ちゃんが不幸になっちゃったらどうしようって、怖くて怖くて、仕方ないの」
切羽詰まった千鶴の声が、やがて笑いを含んだものに変わる。
「二月の恵方巻きだって、吉方を間違えたくなくて、そのためにコンパスまで買ったんだよ。馬鹿みたいでしょう」
布団の下で、千鶴が小さく肩を揺らす。千鶴が、迷信のことで笑うのは初めてだった。
「迷信なんかに縛られたくなくて、クソ田舎も、口うるさいおばあちゃんも、おばあちゃんに従ってるだけの弱い母親も、大嫌いで。実家捨てて、東京出てきたのに。結局、怖くて、破れないの。逃げられないの。ダサいでしょう」
「そんなこと」
そんなことないよと、洋介は言いたかった。千鶴のおかげで、四季を知ることができた。四季よりもっと多く、季節を区切る、雨水だの穀雨だの立夏だのという、美しい言葉も。旬の食材も、カレンダーに書かれた文字の意味も。この国に古くから伝わる、知恵たちを。
洋介が一人で、誰にも頼らずに生きていると思い込んでいたこの世界が、長い歴史や伝承や、暦(こよみ)や知恵の中に、大きく包まれているということに、見えない力に守られていることに、千鶴のおかげで気がつくことができた。
コンクリートの要塞にいた頃には感じられなかった安心感を、千鶴の発する迷信たちから、洋介は得られているのだ。
だけどそれをうまく言葉にできなかった。
「洋介のお母さんも、田舎を捨てて東京に出てきたって言ってたよね? 田舎の両親には一切頼らないで、東京でバリバリ仕事して、子育てして、二十三区に一戸建てまで建てて。本当に、すごいよ。私の憧れだよ」
憧れ? あれが?
コンクリートに囲まれた正方形の部屋で、マックのキーボードを力任せに叩き、クローバーを捨て二十四時間エアコンを回し季節を無視し生き物を無惨に殺す母親が、千鶴の目指す到達点であることに、洋介は違和感を持たずにはいられない。
むしろ、千鶴にはあんな風になってほしくなかった。将来、自分と千鶴の間に子供が生まれたら、今のまま、迷信に縛られた千鶴のままで、子育てをして欲しいと思った。
正月には餅や七草粥を食べ、節分には豆を巻き、コンパスで吉方を調べて恵方巻きを齧り、雛人形は三月三日の夜には片付け、お彼岸にはぼた餅を食べ、梅雨の季節にはてるてる坊主を子供と一緒に作って欲しかった。子供がプレゼントした四葉のクローバーを、大事に財布に入れるような、そんな母親になって欲しかった。
サラサラと流れる、水の音が聞こえる。洋介の家は、もともと大きな川だった沿岸を埋め立てて作った、新興住宅地だった。
「こんな場所に家を建てるのは、危ないよ」
堤防を登りながら、そう言った父親の不安そうな声を思い出す。もう、二十年以上前のあの日。
「大丈夫よ。ここまで川があったのなんて、もう百年も前よ。ちゃんと地元の図書館に行って調べたんだから」
堤防を登り切ると、一気に視界がひらけた。目の前には川が広がり、水面がきらきら輝いている。埋め立てられずに生き残った、もともとは大きな川だったらしき、すっかり細くなった川。
「いい眺めでしょう。二十三区で、こんなに視界が開けてて、この値段って、もうここしかないよ」
「危険な区域だから安いんだよ。そんなの決まってるだろう」
父親は目の前の美しい眺めからわざと目を逸らすように、首をふりながら言う。
「住宅購入にリスクはつきものよ。ありもしない災害に怯えてチャンスを逃すの? 私は多少のリスクをとってでも、あと三十年、住めれば十分だから。この眺めで二十三区アドレス。どうする? こんなチャンス、もうないよ」
その家に引っ越すまでは、中央線沿いの狭いマンションに暮らしていた。窓を開けても隣のマンションの土色の壁が見えるだけで、昼夜問わず工事や電車の轟音が鳴り響いていた。それに比べたら、この眺め。心地よい水の音。堤防に植えられた木々には鳥が集い、ピチピチと可愛らしい声で鳴いていた。
母親は、とても合理的な人間だったのだと思う。
いつまでも反対し続ける父親にうんざりし、折衷案として家は万が一の水害に備えたコンクリートでガチガチに固めた要塞のようなものになった。その真四角の家は、洋介にとってはまったくくつろげる場所ではなかった。
母親がこだわってデザイナーに特注した正方形の家の中心には、中庭と吹き抜けの階段があった。
洒落た家ではあった。だからそんなこだわりの家に蜘蛛が出れば、朝だろうが夜だろうが母親は一瞬で叩き潰したし、一糸の蜘蛛の巣だって見逃さずに破壊した。おしゃれな家には神棚も和室も絶対にしつらえなかったし、景観を乱すてるてる坊主なんか吊るすことも許されなかった。クローバーを投げ捨て、蜘蛛を無常に殺す母親を、洋介はかっこいいとは思わなかった。
ただ、怖い、と思った。
冷たい人間だから怖い、と思ったわけではない。いつか何かが、起こるのではないか。
母親が何か、最低限の敬意のようなものを、本当ならば払わなければいけないものを知らずに生きているような気がして、怖かった。いずれ、罰を受けるのではないか。何か得体の知れない、大きなものから咎められるのではないか。そんな気がして、怖かったのだ。
「あ、カラスが鳴いてる」
眠りかけていた洋介は、千鶴の声に意識を取り戻した。耳をすませると、確かに、遠くからカラスの声が聞こえる。もう夜明けかと思って枕元のスマートフォンを見るが、まだ深夜の一時だった。
「まだ夜なのに。誰かが死んだんだね」
それもきっと迷信なんだろう。千鶴がそっと体を擦り寄せてくる。カラスの鳴き声一つに怯えて、寄り添ってくる千鶴を、洋介は愛おしいと思った。
自然への畏怖は、敬意だ。
母親が、敬意さえ持たないことが怖かった。川を埋めて作ったような土地に、平気な顔をしてコンクリートの家を建てられることが、怖かった。父親とこっそり、近所の神社にしょっちゅうお参りに行っていたことを、思い出す。どうか家が沈みませんようにと、必死に手を合わせていた。
*
こんな人だったのかと、呆れるのと同時に、洋介は薄気味悪いものを感じていた。
それは、その女が手に大きなパワーストーンをつけていたからでも、父親がそれと揃いの、石の種類だけを変えたパワーストーンをつけていたからでもない。
自分と父親が、結局のところ同じ場所に行き着いたということに、心底ゾッとして、背筋が凍るような不気味さを感じたのだった。
ホテルのラウンジにあるカフェに集ったのは、洋介、洋介の母親、父親、そして、父親の浮気相手だという女の、四人だった。
母親との三十年以上に渡る結婚生活に終止符を打ち、父親が新たに結婚しようという女は、洋介より二十は年上であろう、四十代後半と思しき女だった。
年齢不詳。とはまさにこのことかと思う。女は二十代の丸の内OLが着るような、首周りにキラキラしたビーズのついたピンク色のカーディガンを袖は通さずに肩に羽織り、その下はノースリーブの白いニットだった。スカートも白で、ワンピースのように見える。
そのファッションを見て、一瞬、親父も若い女を捕まえたものだと顔を上げたら、首には縦にくっきりと皺が走り、ふっくらした顔にも皺が柔らかく波打っていた。
しかし、女自身にその自覚はないのか、済ました顔で、しょっちゅう「C」が二つ描かれたエナメルのようなバックから手鏡を取り出し、艶々に光らせたリップや薄い前髪を確認し、仕切りに小指の先で直している。そのとき、女の口元には柔らかい笑みが浮かび、自分の姿をえらく気に入っている様子だった。
一方の母親は、仕事から抜けてきた服装そのままで、全身をグッチのグレーのパンツスーツでまとめてきている。ソファの背もたれ側に置かれたバッグは、イヴ・サンローラン。一片の隙もない、ゴールド調のオフィス・メイク。
雨が降るたびに「地盤は、川は、大丈夫か」とオロオロし、母親を苛立たせていた父親。
次第に父親は、家の中で「体が揺れている」だの「眩暈がする」だの言い出し、毎日ビー玉を床に転がしては「傾いている!」などと言い出すようになった。
母親はそんな父親を「ビョーキ」と一喝し、無視してアイマックに向き合っていた。
気が合わない二人だったから、別れて当然だろうとは思う。けれど、よりによって父親が選んだ相手がコレだとは。洋介はため息をつく。
父は女にあつらえてもらったのか、ぐるり石のついたパワーストーンを腕に巻いていた。それをお守りのように撫でながら、何度も何か言いかけては口を開き、閉じるのを繰り返す。
「それで、今日のお話なんですが」
最初に発声したのは、女だった。おっとりとした、艶めいた声だった。父親はこの声に癒されていたのかと、その気持ちがわかりそうになって、気色悪くて慌てて咳払いをする。
「家を、手放していただきたいんです」
何を言われるのかと洋介の隣で身構えていた母親が、力を抜くのがわかった。女は、口元にふわりとした微笑を浮かべたまま、穏やかな口調で続ける。
「崇志さんから伺ったのですが、もともと川だった場所を埋めて作った土地だとか。そういった場所は、非常に、よくないです。川の神の、怒りの声が、聞こえます」
女はまるで自分が苦しむかのように、両目を閉じてみせる。ふん、と母親が鼻で笑うのが聞こえる。女はゆっくり目を開くと、再び真剣な表情で続ける。
「しかも、形が、非常に、よくないんですよね。素材はコンクリートというのも。ああいう、正方形の家っていうのは、とても良くないんです。気が、滞る。コンクリートは、自然のものではありませんから。凍りつくような寒さを、あの家からは感じます」
女の隣で、父親がうんうんと頷きながら、聞いている。きっと女から同じ話を聞かされて、すっかり洗脳されているのだろう。そんな父親を完全には馬鹿にできない自分がいて、洋介は情けなくなる。
「お守り」として、今朝千鶴が貸してくれた四葉のクローバーをパスケースに入れ、胸ポケットに忍ばせている自分と、パワーストーンを撫でている父親の、何が違うというのだろう。
「あの家に住み始めてから、崇志さんは体調を崩されたとか。お子様も、中学受験、大学受験に失敗され、お祖父様も亡くなられて、奥様も望まない部署に異動になったとか」
突然、自分の過去の失敗まで挙げられて洋介は椅子からずっこけそうになった。
確かに、中学受験に落ちたのも大学受験に失敗して一浪したのも、あの家に引っ越してからの出来事だが、全ては自分の勉強不足が原因だった。
事情を知っているはずの父親までもが、眉間に大きく皺を寄せて、女の話をさも深刻な顔で聞いているのが、おかしかった。
「それに」
まだ続けようとする女を遮って、母親がピシャリと言った。
「夫が体調を崩したのは、不倫なんかできる器じゃないのに無理してストレスがかかったんじゃないですかね。息子が受験に失敗したのは、中学受験も大学受験も、全て本人の努力不足です。そうよね?」
母親が洋介の方を見る。睨みつけるような強い目線に、洋介は頷くしかない。
「祖父が死んだのは寿命。私の部署異動はただの派閥争い。川も、家も、一切関係ないです」
口を開いた女を遮って、母親は続ける。
「周りくどい話はやめて、結論からおっしゃってくれませんか。別れろってことですよね。いいですよ。夫と半額ずつ出して買った家です。慰謝料はいりませんから、その代わり夫の取り分はなしで出て行ってもらいます。私は気に入ってますから、これからも住み続けます。以上です」
母親が伝票を手にしようとすると、女の手がさっと伸びて、それを止めた。おっとりとした声とは程遠い、素早い動きに洋介は驚く。母親の骨張った細い手の上に、女のふっくらした柔らかそうな白い手が乗る。ピンク色のパワーストーンが艶々と光る。
「いけません。奥様。奥様、今、お辛いでしょう。ちっとも幸せじゃないんじゃないですか? 全て、あの家のせいですよ。手放された方がいいです。これは親切心で言ってるんです」
「失礼な方ですね」
母親は女の手を、禍々しそうに振り払う。
「川の神だとか、家が四角だとか、そんなの全部迷信ですよ。それで不幸になるのなら、湾岸のタワマンに住んでる金持ちたちはどうなるんですか?」
女は、まるで憐れむような微笑を口元に浮かべながら、じっと、母親の顔を見つめている。母親は顔を歪め、女を振り切るように立ち上がる。
「仕事がありますので。失礼します」
伝票を手に、去っていこうとする。
「ちょっと、お待ちになって」
女は幼児のように両手でバックを持って、母親を追って立ち上がる。
「っていうか、なんで今更なんですか?」
母親はついに声を荒げた。きんとした声が、ホテルのロビーに響わたる。
「ずっと、何十年もあんたら浮気してたんでしょう。なんで今、急に、絡んでくるんですか? これまで通り、勝手にやってたら良かったじゃないですか」
「どうして、今かって?」
なぜか女が、待ちに待ったとばかりに顔いっぱいに笑みを浮かべたのが、洋介にも見えた。
「風の時代に入ったからです」
「風の、時代?」
母親が、拍子抜けしたように、肩を落とす。女の口から飛び出した聞き慣れない言葉に、ぽかんと口を開けている。女は笑みを浮かべたまま、まるで子供に言い聞かせるようにゆっくりと話した。
「惑星の配置が変わるのを、私たちは待っていたんです」
父親は、ソファから腰を上げかけたままの姿勢で、まるで教祖のお告げでも聞くようにごくりと唾を飲む。
「木星と土星のグレートコンジャンクションが、これからは土の星座ではなく、風の星座のエレメントで起きるんです。ミューテーションを、私たちはずっと待っていたんです。今がまさに、その時なんです」
母親は、呆れてものも言えないように、その場に立ち尽くしていた。
*
オフィス街の歩道を、ヒールの音を鳴らしながら早足で歩く母親を、洋介は追いかける。すぐ前を歩いているはずなのに、ヒールの音はまるで遠くから反響しているように聞こえた。
「気持ち悪い女だったでしょ」
母親は振り返る。笑ってはいたが、その顔は非対称に歪んでいた。
「変な石つけて、風の時代だって。お父さんも頭悪くなったね」
先週の母親からの電話を、洋介は思い出す。
「あんたにも来て欲しいんだけど」。そう言った母親の声は、洋介が聞いたこともない、弱々しいものだった。洋介だって、父親の浮気相手など気色悪くて会いたくもなかったが、母親のためだと思い、半休をとって駆けつけたのだ。
「ま、頭悪いのは昔からか。ありもしない水害にびびって」
母親は鼻を鳴らして笑う。
「っていうか、あんたも、彼女できたんだって。どんな子」
そう尋ねた母親の声が、どこか寂しそうな気がして、洋介は身構える。
「お母さんみたいな、合理的な子」。そう言えば、母親は喜ぶだろうか。一瞬、そんな考えがよぎるが、胸ポケットに入れたパスケースの存在を思い出した途端、勝手に言葉が出ていた。
「財布に四葉のクローバー入れてるような、純粋な子」
かつて、四葉のクローバーを無下に捨てたことを、母親が思い出してくれやしないかと思っている、洋介がいる。
「ええ? まさかその子も風の時代とか言ってるんじゃないでしょうね」
母親は声を裏返して、さも嫌そうな顔で洋介を見る。「風の時代」も「四葉のクローバー」も、母親から見たら同じなのだろう。千鶴の良さを話したところで、母親にわかってもらえそうにはなかった。
苦々しい思いで顔をあげると、街路樹の下に黒い猫が座っているのが見えた。前足で、顔を仕切りにこすっている。
「雨が降るかもね」
洋介が言うと、母親は「は?」と空を見上げた。青く、雲ひとつなく晴れわたっている。
「音が遠くから聞こえるし。猫が」
言いかけた洋介を遮って、母親はベージュのトレンチコートのポケットからスマホを取り出した。
「雨雲レーダー見る?」
スマホを操作し始めた母親の前を、黒猫が横切っていく。母親は気がつきさえしなかった。
*
同居しようと言い出したのは洋介の方だった。家賃の更新期限が迫っていた。大学の頃から住んでいるワンルームの部屋は、しょっちゅう泊まりに来る千鶴と二人で過ごすには狭すぎた。
それに、せっかくの季節の料理を千鶴が狭い一口コンロのキッチンで作っているのが、申し訳なかった。千鶴は冷蔵庫や電子レンジの上まで駆使して、狭い台所でおせちだの恵方巻きだのをこしらえた。
何より、季節を感じる暮らしを、歴史と自然と繋がった暮らしをする彼女と、もっと一緒の時間を過ごしたかった。もっと迷信をたくさん教えて欲しかった。
洋介の知らない、この世界の裏側に確かに今も息づいている物語を、幾晩でも語り続けて欲しかった。
しかし、物件は一向に決まらなかった。
「裏鬼門に台所がある」
「これだと、寝る時に枕の向きはこっちになるよね? 北枕になっちゃう」
「お風呂は東か西じゃないと」
めぼしい物件が見つかっても、千鶴は何かと迷信を持ち出しては否定した。
千鶴の持ち出す迷信に加え、洋介は洋介で、せっかく引っ越すなら今度は私鉄沿いのおしゃれな街がいい、朝少しでも長く寝られるよう駅から徒歩十分以内の物件がいい、乗り換えなしで職場へ行きたいなど、それなりに条件をあげていた。
家賃や駅からの距離、風呂トイレ別、エアコン付き、加えて玄関や水まわりの方角まで気にし始めたら、全く部屋は決まりそうになかった。
洋介はリフォーム営業の仕事の傍ら、スマートフォンで延々と部屋を探した。千鶴のあげる条件にも、洋介のあげる条件にも合う良い部屋をようやく見つけて、不動産屋に行こうと意気込んで千鶴を誘っても、「その日は赤口だから」と無下に断られた。
チャンスを逃した翌日、その部屋はサイトから消えていた。迷信を根拠に行動する、千鶴のそういうところを自分は好きになったのだからと洋介は納得しようとしたが、徒労感は否めなかった。
千鶴のあげる条件にも洋介のあげる条件にも一致する部屋が再び見つかったのは、それから一ヶ月後だった。
いくつもの不動産サイトに登録し、毎日、朝から晩までサイトを巡り、ようやく見つけた物件だった。駅から徒歩十分以内、2LDKでこぎれいな物件だったから、すぐにでも契約されてしまいそうだとこれまでの経験で洋介にはわかっていた。
渋る千鶴を「今日は見学だけでいいから」と説得し、仕事帰りで疲れ切った状態のまま、二人で不動産屋に駆けつけた。
時刻は十九時を回り、二十時に閉店すると言うその不動産屋の若い男性社員は、「これから見学ですか?」と露骨にいやそうに顔をしかめた。なんとか拝み倒し、渋々部屋まで連れて行ってもらった。
部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、ここしかないと思った。フローリングは明るい木目調で、カウンターキッチンは分譲マンションのような大理石風だった。リビングの大きな窓の外の目の前には広々とした公園が広がり、青い闇の中、木々が風に小さく揺れていた。マンションの一階にはコンビニまである。駅から徒歩十三分だったが、全くの許容範囲だった。
「玄関は、南。台所は、北。風呂場は、西!」
スマートフォンのコンパスで方角を確認しながら、洋介は大声で言う。後ろに立っていた千鶴も、
「いいねえ。素敵だねえ」
と感心したように、部屋を見回してはため息をついていた。不動産屋の男性社員は、苛立ちを隠さず貧乏ゆすりしながら「こちらでいいと思います。人気の部屋です。明日には無くなると思います」とロボットのように繰り返した。
不動産屋に戻り、カウンターに座る。
「で、どうしますか」
「蛍の光」が流れる店内で、男性社員はデスクの下で何やら作業をし、こちらを見もせずに言った。
「すぐ契約させてください。今すぐ」
洋介は身を乗り出して言った。男性社員が顔を上げた、そのときだった。
隣に座る千鶴が、小さな声で言った。
「洋ちゃん、だめだよ。今日は。だめ」
「なんで」
思わず声が荒くなる。千鶴は俯いたままだが、断固として譲らないとばかりに、膝の上で両手を硬く握りしめている。
「今日は、見学だけって約束だったよね。契約はしないって」
不動産屋の男性社員は、露骨にため息をつく。私物らしき鞄に荷物をつめ始める。洋介は慌てて、千鶴の機嫌を損ねないよう優しい声で、言う。
「こんないい部屋、もう見つからないと思うよ。今、契約しなかったら、他の人に取られちゃうよ。そうですよね?」
男性社員は冷たい声で、
「そうですね。明日には無くなってると思います」
と投げりやりに言った。
「蛍の光」が一番のサビに入り、やたらと凝ったアレンジの弦楽器の音に、洋介の焦りはますます募る。しかし、千鶴は俯いたまま顔を上げない。
聞き取れないくらいの小さな声で、千鶴は言った。
「今は十方暮なんだよ」
「ジッポウグレ?」
洋介は千鶴の顔を覗き込む。交際はまもなく一年になろうとしていた。
千鶴のことも、迷信のことも、だいぶわかってきたつもりだったが、そんなことはないのだと、思い知らされた気がした。洋介が知らなくて、千鶴が知っている世界は、あまりにも底が深く、永遠に終わることなどない、分厚い百科事典のようなものだった。
理解することなど、できっこないのだと思い知らされた。いや、理解する必要なんか、ないんじゃないか。こんな、くだらない迷信。洋介は急に馬鹿馬鹿しくなる。
業界の人間である不動産屋の男性社員でさえ、きょとんとした顔で、「ジッポウグレ?」とその言葉を繰り返した。
千鶴は俯いたまま、言った。
「今は十方暮だから、引越しとかの契約は結ばない方がいいんだよ」
追い出されるように不動産屋を出て、駅までの道をとぼとぼと歩く洋介の背後で、千鶴は十方暮について説明した。が、疲れ切り、うんざりしていた洋介には、ほとんどよく聞こえなかった。
「きのえさる」だの「みずのとみ」だの、「金物は木を切る」だのと、千鶴は叫ぶようにして説明していた。だが、洋介は振り返らずにずんずん歩いた。
千鶴に言わせれば、一年に六回もあるらしい「何をしてもうまくいかない十日間」らしきそれを、どこの誰が気にするだろうか。馬鹿げている。くだらない。そんなものを気にしていたら、社会生活など営めない。
これまで、うっすら感じていた千鶴への苛立ちが、初めて大きな怒りの塊となって、洋介の胸を埋め尽くす。
「あのさ」
まだ十方暮について説明している千鶴に、洋介は振り返り、言った。
「マジで、俺、知らないからそれ。知らないで生きてきて、何にも問題なかったから。絶対、そんなのただの迷信だから」
「ねえ、待って」
まるで洋介の声など聞こえないように、千鶴は目を見開いたまま、突然、口を押さえた。
「どうしよう。忘れてた」
「何」
千鶴の視線は、洋介を通り抜け、洋介の背後にある何かを凝視している。
「どうしよう! 今日、土用うなぎの日だった!」
千鶴の叫び声に、洋介は信じられない思いで、振り返る。洋介の話など、まるで耳に入っていない彼女の視線の先には、「う・な・ぎ」と大きく描かれたのぼり旗を片付けているコンビニの店員がいた。
「うなぎ、食べるの忘れた!」
千鶴は叫び、どうしようどうしようと、その場で踊るようにくるくる回り始めた。これも迷信の儀式なのだろうかと、ぼんやりしていく頭で考える。
「丑の日」というものが一年に六回も七回も訪れることを、洋介は知らなかった。場合によっては月に二回も鰻を食べさせられて、これは食品業界の巧妙な罠だなと洋介は密かに思っていた。
呆れて立ち尽くす洋介などまるで気にも止めずに、千鶴は目の前のコンビニに向かって駆け出していく。一分もしないうちに飛び出して来て、
「どうしよう! もう、売り切れてるって!」
と、洋介に縋り付く。洋介を見上げる目は、コンビニのライトに照らされて潤んで光っていた。
「この辺、他にコンビニあったっけ」
はあはあと、息を切らしながらスマートフォンを取り出す千鶴の手は、震えている。
「ねえ、洋ちゃん、どうしよう、あと三時間しかないよ。今日が終わっちゃう。間に合わない。絶対。絶対に、今日、食べなきゃいけないのに」
千鶴は震える手で、必死になって画面をスライドする。
「あっちにNマートがある。Nマって鰻フェアやってるっけ。ああ。どうして忘れちゃったんだろう。アラートセットしてるはずなのに。どうして抜けちゃったんだろう」
「どうしようどうしよう」と繰り返す千鶴に、コンビニの駐車場に入ろうとしていた車がクラクションを鳴らす。しかし千鶴は全く気が付かずに、スマートフォンを操作し続けている。迷信に夢中になって車に轢かれたら、それこそ本末転倒ではないか。
洋介は千鶴のスプリングコートを引っ張り、駐車場の隅に寄せる。千鶴はそれどころではないとばかりに洋介の腕を振り払い、叫ぶように言う。
「どうしよう、どうしよう!」
「あのさ」
そう言った自分の声が恐ろしく冷たくて、洋介自身が驚く。しかし、優しい言葉も、明るい声も、全く出そうという気持ちになどならない。
「いらないよ。うなぎなんて。そんなもん、迷信だよ」
「だめだよ!」
おとなしい千鶴が、聞いたことのない大声で叫ぶ。コンビニの駐車場から飛び出したその声は、周囲のマンションに反響する。
「いい加減にしなよ」
冷たい声のまま、洋介は言う。
「俺は今までの人生で、一回も土用のうなぎなんか食べなかったけど、まったく不幸じゃなかったよ。だから大丈夫。俺が証明するから。迷信じゃなくて、俺を信じてくれよ」
「ああ! Nマはやってないって!」
洋介の声など聞こえないように叫ぶ千鶴に、洋介はショックを受ける。この人が信じるのは、洋介ではなく迷信なのだ。そばにいても意味などない。近くにいても、洋介には全く手の及ばない、影響など与えることのできない存在なのだと思うと、虚しさに脱力する。へなへなとその場に、座り込んでしまいそうになる。
「そうだ、ウーバー!」
そう叫んだ千鶴の目が輝く。爛々とした瞳に、ブルーライトがキラキラと反射している。ウーバーと迷信の組み合わせがチグハグで、洋介は笑ってしまった。怒りに震えていた肩の力が、がっくりと抜けた。
二十三時過ぎにようやく届いたそれを、コンビニの駐車場に座り込んだまま千鶴は必死にかき込んだ。「いらない」と言い続ける洋介の口にも、無理矢理押し込んだ。
「洋ちゃんが、不幸になっちゃう!」
と叫ぶ千鶴に押し込まれたそれは、脂にまみれほとんど身のない、タレを舐めているような奇妙なうなぎだった。
一生、これが続くのかと思った時、洋介の肩にずっしりとした重みがのしかかったような気がした。自分に背負えるのだろうか。この世界の裏側に存在する巨大な物語の下敷きになり、がんじがらめに拘束されて身動きできなくなっている千鶴を、果たして自分に支えられるのだろうか。
駐車場の縁石に座り込んだまま、東京の夜空を見上げる。低い位置に輝く小さな星が、キラキラと、まるで点滅しているように見えた。
「雨が降るね」
うなぎをようやく平らげた彼女が、つぶやく。またたく星を横切るように、最終電車が高架橋の上を駆け抜けていった。
*
父親の恋人であるあの女とばったり同じ車両に乗り合わせたのは、「風の時代」のおかげだろうか。それとも、四葉のクローバー? 星の、お告げ?
仕事帰り、疲れ切って電車のドアにおでこを押し付けてため息をつく洋介に、女は馴れ馴れしく「あら」と話しかけてきた。白く、柔らかい手でいきなりスーツの裾をひっぱられて、驚く。ピンク色のパワーストーンを見て、あの女だと思い出す。
「この前は、どうも」
女はごく親しい間柄であるように言って、ちょこんと頭を下げてみせた。電車が轟音を立てて動き出す。女と自然に並んで立つ形になって、どうしたものかと洋介は足を踏ん張る。
「お母様、あれからどう? おうちのこと、考えてくれたかしら」
「まさか」
思わず笑ってしまう。母親がこんな女のいうことなど、聞くはずがなかった。
「そう。お母様、かたくなだものね」
女はまるで幼い子供を相手にするように、肩をすくめて見せる。その態度に、思わず「そうなんですよ」などと言ってしまいたくなるのを、堪える。懐柔されてたまるかと、洋介はぷいと顔を背ける。
「あなたに関係ないでしょ」
「あなたも大変ね。ああいうお母様だと。苦労されたでしょう」
女に言われて、ギョッとする。思わず女を見る。口元に笑みを浮かべて、洋介を憐れむような目で見ている。洋介も父親側の人間で、女の味方と思われてはたまらないと、冷たい口調で言う。
「別に。普通の家ですよ」
「そうかしら。あなたの受験の話だって、ねえ。あんな風に言われたら、嫌になるよね」
あんな風? ホテルのロビーでの会話を思い出そうとする。女は、明るい口調で言った。
「受験なんて、半分は運なんだから。家のせいにしちゃえばいいのに。落ちたのは、家が四角いせいだって。川の上にあるせいだって、言ってやればいいのよ」
「家の、せいに?」
女の言葉に、洋介は息を呑む。考えたこともない発想に、衝撃を受ける。中学受験も、大学受験も、全部、自分の努力が足りなかったせいで、落ちたのだ。
母親は何度も繰り返し洋介にそう言ったし、自分でもそれに納得していた。
自分のせいだと認めない限り、運のせいになんかしていたら成長しないと、母親は言った。
「嫌じゃない。あんたの努力が足りなかったせいだなんて延々言われたら。家のせいにしちゃえば、楽なのにねえ」
言葉が出てこなかった。女はすました顔で窓の外を見ている。洋介が、これまで信じてきた世界が大きくぐらりと揺れた気がして、吐き気を覚える。手すりに捕まった女の腕のパワーストーンが、ライトに反射して優しく光る。
「それにしても、お父様。ようやく離婚してくれそうでほっとしてる。風の時代のおかげね」
女は言った。洋介は、女に流されてはいけないと必死に足を踏ん張って、尋ねる。
「っていうかその風の時代って、なんなんですか。やばいっすよ、それ。本当なんですか?」
「本当かなんかどうでもいいのよ」
女は洋介がさもおかしいことを言ったように、無邪気に笑ってみせた。
「いいじゃない。本当かなんか、どうだって。私のやってる動画チャンネルも、風の時代ってつけとけば再生回数爆あがり。ほら、ちょうど、状況がぴったりなんだよね。コロナで、社会の価値観が大きく変わったから」
女は窓の外を見たまま、楽しそうに続ける。
「たまたま風の時代への転換期とコロナがピッタリあったものだから、おかげさまで、みーんな信じてくれるのよ。あなたのお父さんもね。ようやく決断してくれた」
女は嬉しそうに、胸を撫で下ろす仕草をする。
「なんでも、物は言いようね。迷信とかもそうでしょう」
迷信、という言葉が出て、洋介はビクッと全身に力を入れる。コンビニの駐車場で口に押し込まれたうなぎの苦い味がよみがえる。
「へそを出して寝れば腹を壊すし、靴下を履いて寝れば発汗できなくて風邪ひくし、ツバメが低く飛ぶ時は虫が低く飛んでる時だから雨も降るし」
電車がカーブに差し掛かり、大きく揺れる。しかし、手すりを掴んだ女の力は思いがけず強いらしく、全く動じない。洋介の頭が混乱していく。口に湧き出した苦味を、必死に飲み込もうとする。
「なぜ雨乞いが成功するか知ってる?」
女は窓の外を見たまま、独り言のように言う。
「雨乞い」
その儀式がなんなのか、洋介はぼんやりしていく頭で思い出そうとする。
「まもなく、五反田、五反田です」。アナウンスが流れる。女はもう一度洋介を見上げ、はっきりとした口調で言った。
「雨が降るまでやり続けるからよ。そりゃいずれ雨なんか降るよね。迷信なんか、みんなそんなものよ」
電車が止まる。大袈裟な音を立てて、ドアが開く。女は洋介に背を向け、そして振り返り、言った。
「信じるか信じないかじゃない。どう使うか、よ」
*
例年にない、激しい雨だった。
もうあの川の近くには住んでいない、内陸部の安全地帯に住んでいるはずの洋介でさえ不安になるような、長く激しい雨だった。
不安でつけっぱなしにしているテレビでは、延々、「大雨警報」に関するニュースが流れている。関東の各地で、川が氾濫し橋が壊れ、道路が冠水し、住宅の一階部分が水の下に沈んだ映像が流れる。
「すごい雨だね」
結局、引越しは進まないままだったので、相変わらず洋介の狭いワンルームに遊びに来ていた千鶴も、テレビ画面を見て不安そうな声を漏らす。小さなテーブルの上で、何やらティッシュを丸めて作業をしている。
「ねー」
と、平静な声で答えた洋介だったが、内心は、心臓がバクバクいうほどの緊張を感じていた。母は、大丈夫だろうか。コンクリートの真四角の要塞、あの家は、大丈夫だろうか。
轟々と流れる、川の音を思い出す。子供の頃、大雨が降るたびに、布団の中に隠れ、ガタガタ震えて怯えていた。埋め立てられた川の神様が、怒り、本当は自分のものだった川を取り戻そうと、竜のようにうねうねと川底から姿を現し、大量の水を押し上げ、堤防の上の洋介の家まで這って出てくる姿を、密かに想像していた。
アパートの薄い窓を、激しい雨がざああっと音を立てて叩く。
「できた」
千鶴は言い、カーテンレールに向かって背伸びした。ティッシュペーパーと輪ゴムで作ったてるてる坊主を吊るす。てるてる坊主には、可愛らしい目と口も描いてあった。口はニッコリ笑っている。
「てるてる坊主、てる坊主、あーした天気にしておくれー」
吊るしたばかりのてるてる坊主に向かって、千鶴は歌った。洋介の知らない歌だった。信号機でよく使われている「とおりゃんせ」とよく似たメロディ。
「いつかの、夢の空のよに、晴れたら、金の鈴あげよー」
そこまで歌って、千鶴は洋介に振り返る。
「金の鈴だって。可愛いよね。ドラえもんみたい」
大きな前歯を見せて無邪気に笑う千鶴の顔を見て、激しい雨音に緊張していた体が、ほっと軽くなっていくのを感じる。
「晴れたら、金の鈴つけてあげようね」
千鶴は言って、窓辺のてるてる坊主の頭を撫でる。洋介は未だ激しく雨が叩きつける窓を見上げる。優しく笑ったてるてる坊主を見ながら、頭の中で千鶴の真似をしてこっそり歌ってみる。
てるてる坊主、てる坊主。子供の頃に、この歌を知っていたら。あのコンクリートの家にも、てるてる坊主を吊るすことを許されていたら。あんなに怖い思いをしなくて済んだんじゃないか。迷信は、人を救う。癒す。慰める。励ましてくれる。
やはり自分はこの子と生きていきたいと、歌う千鶴を洋介は見ていた。
夜になっても雨は止まなかった。実家の家の近くに流れる川の水位が上昇していると、ニュースで聞いた時、吐き気を感じた。住民には避難警報が出されたという。
母親はどうしただろうか。意固地な母親なことだから、まさか家に残ってはいないだろうか。いや、合理的な人だから、きっと、警報に従ってくれたはずだと、洋介は必死に思い込もうとする。
千鶴は雨がもっとひどくなりそうだからと、昼前に帰ってしまっていた。一人の部屋でニュースを見ていると、不安でいてもたってもいられなくなる。窓辺のてるてる坊主に何度も手を合わせ、頭の中で「てるてる坊主」の歌を歌い、なんとか平静を保とうとしていたその時だった。
ポケットのスマホが震えた。母親だった。必要以上に驚いて、手を震わせながら洋介は電話に出る。
「ねえ、大丈夫だよね」
電話の向こうの母親の声は、これまでに聞いたことがないくらい、怯えて震えていた。
「おい、まさか、避難してないの」
「してないよ。大丈夫だと思ったから」
「何してんだよ」
思わず怒りの声が出る。どうしてこうなんだろう。千鶴は信じすぎて引っ越しさえできない。母親は信じなすぎて、命の危機に晒さられている。
「っていうか、風の時代とか、嘘だよね」
突然、電話の向こうで母親が妙なことを言った。
「なんで今、風の時代?」
洋介は驚いて、素っ頓狂な声をあげる。
「だってこの雨。あの女の呪いかと思って。風の時代とか言ってたからさ。あんなの、嘘だよね」
母親は笑おうとしているようだったが、その声は震えている。スマホのスピーカーの向こうからも、ざあざあと激しい雨の音が、いや、もはや川の音かもしれない水の音が聞こえる気がする。
「ねえお母さん、風の時代とかいいからさ、今はとにかく、避難してくれよ」
「できないのよ」
「なんでだよ!」
怒鳴るように言った洋介に、萎れるような小さな声で、母親は答えた。
「怖い」
聞きたくなかった。初めて、母親から発せられたその言葉に、洋介は信じていた世界がガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。
「怖くて、外に出られない。呪いでしょう、これ。あの女が言ってた。死ぬんじゃないかと、思って、怖い」
だったらあの時。捨てないでくれれば良かったのに。あれが、今、あれば、お守りになったのに。自然への信仰も、畏怖も、捨ててきたのはあなたじゃないか。踏みにじり、立ち向かうと決めたのはあなたじゃないのか。何を今更、怯えているのだ。
「信じるか信じないかじゃない。どう使うか、よ」
あの女の言葉が、蘇る。洋介は知る。誰が一番、強いのか。誰が一番、賢いのか。
窓辺に揺れるてるてる坊主を見上げる。洋介は一回、大きく深呼吸をする。スマートフォンを握り直し、洋介は言った。
「大丈夫だよ。こっちには、迷信がついてるから。風の時代になんか、負けないよ」
「何言ってるの」
母親が戸惑った声で言う。
「俺の彼女。迷信女なんだ。迷信のことを聞いたら右に出るものはいない。その彼女が、てるてる坊主を吊るしてくれたんだ」
「てるてる坊主」
電話口の向こうで、母親がかすかに笑ったのがわかった。そこに、侮蔑は含まれていない。敬意すら感じられる、笑いだった。
「しかも、普通のてるてる坊主じゃない。金の鈴をつけてる」
本当はまだ付けていない、ごく普通のてるてる坊主を、見上げながら洋介は言う。
「金の鈴をつけるとその効力は三倍になるんだ。しかも今日は大安で一粒万倍日で天赦日でかつ寅の日だからね。全くもって悪いことが起こるはずなんかありえない日なんだ」
嘘だった。適当だった。洋介の口から、次から次へと勝手に言葉が出てくる。
「しかも、猫が後ろ足で顔をかいていたからね。猫が顔を洗うときは雨が降る時なんだけど、顔を後ろ足でかいた時は雨がやむ時なんだ。さっき見かけたから、まもなく雨は弱まるだろう。さらに、俺の街ではすでに虹が二重にかかっている。二重の虹は幸福の象徴だからね」
「そうなんだ」
洋介の息つく間もない演説に、母親がほう、と電話口の向こうで息を吐くのがわかった。
「それに昔、お母さん、俺がプレゼントした四葉のクローバーを捨てたことがあったでしょう」
「あったっけ。そんなこと」
笑いを含んだ母の声は、聞いたことのない柔らかなものに変わっていた。
「あれが良かった」
洋介は、唾を飲み込みながら、一気に話す。
「裏に虫のついたクローバーは、不幸の象徴だから。あれを捨てたことで、全ての悪運は取り払われたはずなんだ」
洋介は窓の外を見る。あれほどまでに激しくガラスを叩いていた雨は、いつの間にか弱まっている。真っ黒だった空が、徐々に光を取り戻し、薄い灰色へと変わっていく。
「だから、大丈夫。お母さんには、幸運がついてるから。だから、いける。大丈夫だよ」
「大丈夫」と繰り返す洋介に、母親はただひたすら「そうなんだ」「そうなのね」と相槌を打っていた。その声は、先程まで震えていたとは思えないほど、穏やかになっていった。
ぶ厚い雲の隙間から、人智を越えたとしか思えない、真っ直ぐな黄色い光が、静かに差し込み始めていた。
*
「いかがですか。こんないい物件、滅多にないですよ」
焦れた不動産屋は、その場で足踏みしながら繰り返す。
「この辺りでは、もうこれが本当に最後だと思います」
「でも」
千鶴は不動産屋に貸し出された安っぽいスリッパでフローリングを擦りながら、つぶやく。
「どうしても、玄関が北にあるのが気になって」
千鶴は何度も方位磁石を持ち上げては、玄関の方角を確認する。千鶴の持参した方位磁石は、確かに玄関の位置を「北」と示している。
不動産屋の三十代くらいの男は、「あんた、なんでこんな迷信女と?」とでも言いたげに、洋介を訝しげな顔で見る。
玄関が北にある。それ以外は、完璧な物件だった。駅からの徒歩も八分、最上階で眺望も日当たりも最高、風呂トイレ別、エアコン付き、エレベーターにオートロック、宅配ボックスにカウンターキッチン、道路を渡った向かいにはスーパーまであった。ちょっと覗いてみたところ、魚や野菜が安く、千鶴の手料理がますます捗りそうだった。
ここしかない。洋介は頭の中で、すでに決めている。あとは、どうするか。北が、北がと繰り返す千鶴の背中を見ながら、考える。
信じるか信じないかじゃない、どう使うか、だ。洋介は深く息を吸った。
「大丈夫だよ、千鶴。今は風の時代だから」
「風の、時代?」
祖母から伝え聞いた迷信だけを指針に生きてきた千鶴が、初めて触れた概念に驚いたように、目を見開いて洋介に振り返った。
「知らないの? 千鶴。時代が変わったんだよ。二百年ぶりの大転換が起きたってのに、知らないなんて驚いたな」
「え。何それ」
千鶴は自分が知らない概念があったことに怯えるように、目を見開いたまま洋介を見ている。
「木星と土星がグレートコンジャンクションしたの、知らないの? 二十年に一度のコンジャンクションで、クロノクレーターしたってのに。これからは風のエレメントでミューテーションするのに。もう土の時代は終わりだよ? 千鶴、まだ土の時代にいるの?」
「土の、時代」
千鶴は口の中で確認するように呟く。
「大転換が起きたから。太陽の位置も、北の向きも、微妙にずれたんだよ」
洋介はスタスタと歩み出し、スマホの適当なアプリを開き、見るふりをする。
「あーやっぱり。こっちじゃない。風の時代的には、こっちは北じゃないわ」
「そうなの」
千鶴は心底驚いた様子で、大きく息を吐く。
「北じゃなくて、新しい方角、インジミテーションを指してるよ。インジミテーションがパッセージを起こして、リクテーションしてるから、全く問題ないよ」
洋介はにっこりと、笑ってみせた。
「そうなんだ。全く問題ないんだね。風の時代的には」
千鶴の顔にも、安堵の笑顔が浮かぶ。
「そうそう。千鶴、まだ土の時代にいるんだもん。やばいよ。早くおいでよ、こっちの世界に」
「こっちの、世界」
洋介の言葉に、千鶴の目がぼんやりと霞んでいく。新しい信仰を見つけ、酔うように「インジミテーション、リクテーション」とぶつぶつ繰り返している。洋介がついさっき適当に作った、新しい言葉たちを。
「そういうわけで、契約します」
洋介の言葉に、不動産屋はこっくりとうなずく。先程まで「なぜこんな迷信女と?」という顔で洋介のことを見ていたが、「風の時代男」として洋介を認識したのか、深く関わるまいとするように、一歩引いたまま硬い笑顔で立っている。
「あ、でも、今日は見学だけって」
千鶴は思い出したように言う。背後から洋介の服の裾を引っ張り、怯えたように寄り添ってくる。
「契約はしない約束。だって、不成就日だから」
「千鶴、それは、土の時代の概念だろう」
洋介は千鶴に振り返り、きっぱりと言う。
「今は風の時代だぜ? 変わったんだよ。そういうのも。価値観の大転換機を迎えてるってのに、まだ昔の暦、使ってんの?」
「え、嘘。変わったの。大転換機? 暦も? え?」
混乱する千鶴を無視して、洋介はスタスタと玄関に向かう。スリッパを脱ぎ捨て、さっさと靴に履き替える。
マンション最上階の廊下は屋根がなく、空が突き抜けていて気持ちが良かった。長い雨はとっくにやみ、空は嘘みたいに広く晴れ渡っている。
慌てて、千鶴が追いかけてくる。
「ねえ、洋ちゃん、さっきから言ってるその、風の時代とか土の時代とかインジミテーションとか、なんなの? 詳しく教えてくれない?」
洋介を見上げる千鶴の目は、新たな信仰を見つけ、焦りと焦がれにきらきらと輝いていた。
「もちろん」
洋介は答える。晴れ渡った空には、二重の虹がかかっていた。にゃんとどこかで黒猫が鳴いた気がした。
(了)
2023年1月20日 73枚
☆最後まで読んでいただきありがとうございました。
☆感想いただけたらとても嬉しいです!いただいた感想にはすべてお返事いたします♪
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☆10日に1本、「0」のつく日に短編小説を公開しています!
あらすじ:
決戦のときがきた。スーツケース1つを手に、不倫相手の自宅へ意気揚々と押しかけた真里子。しかし、不倫相手の妻である雅代の態度は、予想とはまるで違っていて…
読んでいただき、ありがとうございました!
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