【ショート小説】ため息ハラスメント
「それ、わざとやってる?」
最初に指摘されたのは、三人目の子供が生まれた直後だった。
コロナで里帰りができず、産後すぐ上の子供達の幼稚園の送迎までしていた妻。
ストレスで気が変になったのかと思った。
「なんのこと」
「ため息。わざと、聞こえるようにやってるでしょう」
「ごめん。無意識だった」
「嘘ばっか。何アピール? ほんとやめて」
冷たい言葉に、悔しくて唇を噛む。ずり落ちてくるワイシャツをめくりながら、洗い物を再開する。
僕だって一生懸命やってるのに。
少しでも妻を手伝おうと、同僚に白い目で見られながら定時で退社してきたのに。
流しには、朝食のプレートから幼稚園用の水筒2本、弁当箱3箱、赤ん坊の哺乳瓶、鍋やフライパンまで、無造作に突っ込まれている。
幼稚園用の水筒は、紐までびっしょり濡れている。紐はドライヤーで乾かさなければいけない。
想像しただけで、ため息が出る。
「ほら、また」
妻の鋭い言葉が飛んでくる。
いつまでも風呂に入ろうとしない五歳、三歳の子供に向かって怒鳴りつけていたかと思ったのに、僕のため息まで耳に入っているとは。
地獄耳とはこのことか。
「ほんとうざい。言いたいことがあるなら、ため息じゃなくて、言葉で言ってくれない?」
言ったってしょうがないじゃないか。
8時間労働で疲れ切った体で、きれいで静かな家に帰れないしんどさを、ちっとも癒されないしんどさを、妻に優しく労ってもらえないしんどさを、言葉で言ったところで、わかってもらえるはずがない。
「今度、ため息ついたら、離婚だから。それ、ため息ハラスメントっていう、立派なDVだから」
妻はなぜか勝ち誇ったように言う。
この家では、呼吸さえ自由にさせてもらえないのか。
つらいときでも、鼻歌を歌っていろというのか。
僕は感情のないロボットじゃない。金を運ぶだけのATMでもない。
息くらい、自由に吐かせてくれよ。
*
「あなたがため息をつくと、責められているみたいで、つらい」
ある日、妻はそう言って、泣いた。
次の日、子供も妻も、いなくなっていた。
あんなに騒々しかった家は、しんと静まり返り、キッチンもきれいに片付いていた。
「やればできるじゃん」
がらんとしたリビングに、僕はへたりこむ。
「はーーーーーー」
やっと、好きな時に好きなだけ、ため息がつける。
子供達の喧騒の声ではなく、妻の暴言でもなく、自分自身の深い息の音に、心から癒されていく。
僕は何度も、息を吸い、吐き出す。
もう一度、もう一度。
吐き出した息とともに、僕の胸は空っぽになった。
(了)
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