”あの日の事”を考えてみる。
13年前の3月11日14時46分、私の世界は一変した。
この日、私は秋田の大学院に通い、朝から4階の研究室で実験をしていた。
地震直前、私は実験のために劇薬をいくつか机に置き、60℃以上の湯浴を用意し、左手に試験管、右手にピペットを持っていた。
運命の瞬間、揺れは異質だった。
北海道出身の私は幾度もなく地震を経験しているはずなのに、知らない揺れ始め。
何かがおかしいっと思った瞬間、立っていられないほどの揺れが来る。
椅子に座って実験をしていた私は右手に湯浴の熱湯をかぶりながら、試験管に試薬を入れようと格闘していた。
周りを確認した次の瞬間、
停電
鳴りやまない警報音
誰かの悲鳴
「隠れろ!!」という叫び声
一向におさまらない揺れ
何故か凄く冷静だった私は机の下の隠れることはなく、
近くにあった遠心分離機を足で押さえつけ、流しの上にある400Lくらい入っている蒸留水のタンクを裏から両手で押さえていた。
何分なのか、何十分なのか、長い時間が経って、揺れはおさまった。
研究室は滅茶苦茶だった。
フリーザーと冷蔵庫は停止して、中身は全て廃棄。
恒温槽も停止して、細胞も全て廃棄。
研究なんてとても続けられない。
研究より気になったのは病棟。
完成したばかりの新病棟。
予備電源にちゃんと切り替わっているだろうか?
患者さんはみんな無事だろうか?
そればかりが気になった。
各研究室の教授の指示で、全員が玄関前まで避難する。
玄関前に移動して見上げた空は大雪、次の瞬間に避雷針に落雷。
ある教授が持ってきたラジオは「仙台空港が津波で壊滅した」ことを伝えている。
天変地異とはこういうことなのかと。
東北は終わるのかと。
そんなことを思っていた。
先輩の助けで何とか家に帰った私。
部屋を確認すれば当たり前に停電、断水、ガスは出ない。
携帯電話の電波もない。
運よく部屋には大量に水を凍られていたから水には困らない。
食べ物はないけど、料理をするから調味料、塩と砂糖はある。
最低2週間は生きられると思っていた。
学校にも行けない、モノも売っていない、ライフラインも使えない。
私は諦めて丸3日間眠ることにした。
3日あればライフラインが1つくらいは直るかもしれない。
3日後の夜、電気が普及した。
引き続いて水道、ガスも普及する。
しかし、電気は不十分で計画停電が続いていた。
停電するから実験も十分に出来ない、夜は電気がないから何も出来ない。
日が昇れば起きて、日が沈めば眠る。
街には何も売っていない。
水も食べ物ももうずっと見ていない。
とても現代ではない生活がしばらく続く。
そんな中、私は大学院を卒業し、最初の職場だった新潟へ引っ越した。
東日本大震災の影響もあり、飛行機は使えず、寝台列車での移動となった。
その寝台列車も余震によって途中で止まり、紆余曲折の末に新潟駅に辿り着く。
初めての新潟。
自分の赴任地への移動方法を調べて駅の中を彷徨う。
そして、ある光景に涙が止まらなかった。
スーパーに溢れる食べ物。
そんな当たり前の光景に私は凄く感激して泣いていた。
新潟に引っ越してから食べ物にも生きるにも困らない生活。
食べ物がある、電気がある、なんて贅沢なのだろうか。
東北で今も苦しい想いをしている人達に申し訳ないと感じなかった日はない。
私は今自分に出来ることを全力でしよう、そう心に誓った。
あれから13年、就職で秋田を出て以来、一度も東北を訪れてはいない。
毎年3月11日が近づくとあの日の記憶がフラッシュバックする。
一生忘れられない記憶。
あの日亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。