しゃぼん玉
部活をさぼって彼の家に来るのはこれで何度目だろう?玄関を開けて私の姿を見た彼は、
「またか。」
と小さな声で嫌そうに呟き、私から目を逸らした。
「・・・いいでしょ?寒かったから。」
開けたままのドアから吹き込む風はほんのりと冬の香りを纏っていた。
「・・・ったく、少しだけだからな。」
少し間があって、彼は私を家に入れた。いつも通り、廊下を進む彼の背中からは戸惑いの気配が漂っていた。本当はその背中に抱きついて甘えたいと思った。でも迷惑がられるような気がして、襟に当たってはねている、少し伸びかけた襟足を、黙って見上げていた。
部屋に入ると、定位置になっているベッドに腰掛けて、アニメキャラクターのポスターだらけの壁を見回した。
「あんまりじろじろ見るなよ。」
彼は私に背を向けるように勉強机に座りながら言った。スタンドの灯りはつけっぱなしで、英語の宿題が広げてあった。
「勉強してたんだ。偉いね。」
私が言うと、
「まぁ、受験も近いし・・・。」
彼は少し照れくさそうに言った。
「まだお母さんにオタク趣味のこと隠してるの?」
私がからかうように言うと、
「うるさい・・・。」
と、彼は露骨に落ち着き無くなって、私を振り返って言った。
「ポスターもフィギュアも、毎回片付けるの大変そう。絶対ばれてると思うよ。もう。」
私が笑って言うと、
「お前だってさ、それ、ばれてるんじゃないの?親にさ。」
彼は私の左手首に目をやって言った。哀しいのか、虚しいのか、困っているのか、そんな行き場のない声だと思った。
「優希は誰かに言った?」
目を逸らして私が聞くと、
「言ってないけど・・・。お前さ、何でそんなことすんの?」
彼は少し考えるような間をおいて言った。
「軽蔑する?」
私が聞いた。
「しないけどさ・・・。絶対痛いじゃん・・・。自分でそれやるって俺にはまったく理解できない。」
彼は小さいけれど断言するような声で言った。
「生きてるって実感したいとか、ストレスとか、ただのかまってちゃんとか、よくある理由を並べてみると、全部当てはまるような気もするし、全部当てはまらないような気もする。」
私がベッドに座りながら言うと、
「何それ、意味わかんない。」
彼が言った。
「・・・優希、私のこと抱いてよ。」
私が唐突に言うと、
「それこそ意味わかんない。」
彼は軽く笑ってそう言いながら、ベッドに仰向けに寝転ぶ私に目を向けた。そして、驚いて真っ赤になると、慌てたように私のいるベッドまでつかつかと歩いてきて、ブラウスのボタンを開けている私の手を掴んだ。そして、目を逸らしてかすれた声で言った。
「そういうのやめろよ・・・。本当は俺とそういうこと、したいわけじゃないくせに。」
私はその答えに胸の奥がぎゅっと掴まれたみたいに痛くなって、彼の手をぎゅっと抱きしめて泣きながらまくし立てた。
「童貞のくせに私に口答えしないでよ。あんたみたいなダサい男と、この私がやってもいいって言ってるんだから、黙って従いなさいよ。やめさせたいんでしょ?私の自傷行為。そのくらいしてよ。あんたも童貞卒業できてWin-Winじゃん。」
「童貞は関係ないだろう・・・。」
彼の声はなよなよしていて頼りなかったけれど、肌越しに感じる指先から、私の誘いには乗らないという、確かな意志を感じた。
「・・・意気地なし。」
私が泣きながら言うと、
「意気地なしでいいよ。多分お前は俺としたくらいでやめないと思うし、それ。」
彼は私の手から自分の手を優しく引き抜いて、小さな声で言った。寂しいと思った。空っぽの心が胸の奥で鈍い痛みを放っていた。涙が止まらなかった。
「優希なんて嫌い。もう、私に触らないでよ。変態。」
そう言ってベッドの縁に座る彼の腕を拒絶するように軽く叩いた。言葉とは裏腹に、本当はその温もりが恋しくてたまらなかったけれど、私は触れた途端に弾けて、一瞬で消えてしまいそうなくらい、脆くて、不確かで、刹那的なしゃぼん玉のようだった。