aruka

美術の作品を作ったり

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最近の記事

私の信仰

金川晋吾さんの個展「祈り/長崎」を見にいった。祈りの地長崎と言われる長崎の、キリスト教の像や、宗教ではない長崎の平和祈念像、自身の身体や家庭の中での信仰の様子などが写真で写されていた。 その写真は被写体と距離があり、長崎の平和祈念像などはどこかのっぺりとしてその過剰な肉体の表現とはギャップのあるのっぺりした顔の間の抜けた感じなどが目についた。そこに威厳はなく、奇妙な像とさえ見えた。 被写体との撮影者の距離感は、「見つめる」けれど決してそこに交わらない、撮影者の物、人、風景との

    • 生きているだけでいい

      人間は身体から離れられないからこそ、身体によって外側から様々なことを規定されている。 急な身内の不幸があり、喪服を着ることになったので、普段はかないストッキングを履くことになった。 私は非常に毛深く、何も処理していない時の足や腋の下を見たら誰も私が女性の身体を持っているものだとはわからないぐらいだ。 私は夏など手足の露出がある時は仕方なく毛を処理しているがいつも悔しいような負けたような気持ちになっている。 なので、周りの人が永久脱毛が楽だよ、と教えてくれるたびに、「そう

      • 何千回でも

        絶え間なく降りかかる 火の粉を払うことで 精一杯の人生だとしても 青空の元 戦場にいるあなたに 祝福を あなたは悪くない 何千年も前から火種はあった その火は絶えることなく 何千年もの間 気まぐれに その時々の為政者の気まぐれで 降り注ぐ あなたの髪の毛に火がかかる あなたの髪の毛は燃え上がる あなたの身体は火を纏う 燃え尽きた身体から 新しい命が芽吹く 何千年も繰り返し 何千回もあなたは 生まれ変わる 荒れた乾いた土地から あなたの命

        • 過去の思い出

          心身ともに疲れが取れない。 こぼれ落ちるものと残るものがあって、そのザルみたいなものが社会の構造だとしたらそれは年齢が上がっていくにつれてザルの目は大きくなって最終的にはほんの少ししか残らないようになっているのか。 ザルから落ちたものはまた違うザルにかけられてそこでも落ちたり残ったりする。 選ぶ、選ばれる立場は固定化されたら変わることはなくなる。 プレイヤーはいつも選ばれたり選ばれなかったりで、選ぶ側にはならない。 疲れている時に思い出すことがある。 通っていた女子

          上書きされる家

          昨日、築50年くらいは経ってるであろうお宅に伺う機会があった。 東京から少し離れた埼玉の長閑な街、駅から車で5分くらいの所にある住宅街。街は住宅、雑木林などが主で大きなマンションやスーパーなどは見当たらない。高い建物があまりない、地面の起伏も少ない見通しの良い道が続く。 その街の住宅は、東京に比べ敷地が広く庭のある一戸建てが多い。家の作りから70年代後半〜80年代に作られた家が多そうで、逆に最近建てられたというのがすぐにわかるいわゆる建売住宅というのはそれほど目立たなかった

          上書きされる家

          見ること

          目で見えるものはあくまでも現実であること、 それが自分にとっては重要だ。 見ること、ということが難しい。 それは見たこと、を記憶の中で再生させることが、その機能が 自分の中で弱いからだ。 しかし、それが「絵」になっていると思い出すことができる。 再生させることができる。 だから、絵を描くことでその出来上がった絵を見ることがで記憶を再生させることができる。 見る、経験だけでは自分の記憶装置は定着しない。 描き、それを見ることで初めてそれによって紐づいた実際に見た風

          見ること

          母はいるのか。その前に私はいるのか。

          電車の中にて 30代前半くらいの母親らしき人がベビーカーをひいて 中には赤ん坊、一緒にその母親の娘とおぼしき小学校3,4年生くらいの女の子。彼女らは扉の前らへんにいた。 女の子が電車の中で赤ん坊を覗き込もうとしゃがみこんだ。 母親らしき人は「こんな所で座らないでよ!」ときつめに叱った。 娘は「座ったんじゃなくてちょっとしゃがんだだけだよ!」と言い返すが 母親の怒りの声が強くかき消された。 傍から見たら「そんなに怒らなくてもいいのに」という感じだが 私はこの母親の怒り

          母はいるのか。その前に私はいるのか。

          反能力主義の実践は可能か

          制度や都市計画などのハード面から人間のソフト面が決定されるものの一番大きなものが資本主義社会なのだと思う。 能力によって人の価値が決まっていく社会の中で優生思想に基づいた犯罪が起こるのは不思議ではない。私達は子供の頃から常に能力によって選別されていて、それが「努力」によって達成されるものだと思い込まされている。実際は遺伝的な特権や社会的秩序によってそれらはほぼ「あらかじめ決まっている」にも関わらず。 そして、優生思想による差別や犯罪化を防ぐために「道徳」という教育がなされ

          反能力主義の実践は可能か

          住環境の変化による意識の変化について

          住居を変えたことによって生活動線が変わり、生活のための一つ一つの動作が以前よりも意識的に明確に行えるようになったということを一つ前の記事に書いた。 そこから気がついたのは、住居というハード面が人間の行動や感情などソフト面に与える影響だ。 住居というのは人間が住むものだから、順序としては人間の普段の行動があって、そこから生活しやすい動線になる間取りを考え、そこから住居ができあがるというのが正しいはずである。 しかし現実はそのように住居を作るのは注文住宅しかなく、それは高額

          住環境の変化による意識の変化について

          生活について

          引っ越しをした。 以前住んでいた家はめちゃくちゃな家で、通常住居としては使用しない物件に無理やり住んでいたので、生活動線がめちゃくちゃだった。 玄関が2階にあって、そこは屋根に無理やり螺旋階段を作って 玄関にしたものだった。その階段にたどり着くにも、ビルとビルの細い隙間を奥まで行って、まさかそこに人が住む場所があるとは誰も気づかないような場所に突如螺旋階段が現れるのだ。 階段を登ると屋根がありそこが一応玄関だ。 もちろん靴を置く場所はないので、扉を開けたら靴をもって中に入

          生活について

          よきものでいなくてはいけないという属性

          今朝の電車で、車椅子の女性が乗ってきて、車椅子専用スペースに行った。 それまで専用スペースにいた人達はさっとどいて、特に何も問題はなかった。車椅子の女性と付添の年配の人(親と思われる)は「すみません、ありがとうございます」と大きめの声で言い、私はその後20分くらい電車に乗っていたがその人が降りるまで社内は静かで車椅子の人も「すみません、おります。ありがとうございます」と言って降りていった。 話は変わるが私は電車の中でよく化粧をしている。 これはもう20年くらい前から。

          よきものでいなくてはいけないという属性

          身体 ノイズ

          朝、仕事のない時は近所のカフェに行く。チェーン店のカフェだ。 そこの店員さんは白いシャツが制服で、私が注文した時女性の店員さん の素肌の腕が見えた。 その素肌は毛がなくてツルっとしていた。 ノイズがない と思った。 私は毛深く、基本毛を生やしっぱなしにしている。 私の腕の毛を見た人はそれを「ノイズ」だと感じるだろう。 何にとってのノイズかといえば、「あるべきはずの女性」にとってのノイズなのだと思う。 普通にしていれば生えているはずの毛が、「ノイズ」と感じられる世

          身体 ノイズ

          言語と思考

          言語が先なのか思考が先なのかというのはわからない。が、どちらもつながっている。 日本語に主語がなくても通じること、組み立て方が適当でもなんとかなること、受け身が多いことなどは日本人の思考の仕方にもつながっていると思う。 英語を勉強していると常に主語は何かを考えて作らなくてはいけない。これは私が思っていることなのか、それとも物体なのかとか。 私が思う、考えることは常に責任も同時に生じている。 日本語は責任逃れがしやすい。 状況のなかでそのような立場が「発生した」かのような言い

          言語と思考

          何を一番にするかは私が決めること

          自分が子どもを産んでから、目につくようになったのは「ママ○○」や「○○ママ」というやつだ。 ○○には母親向けの仕事の名前だったり、母親向けの何か商売のものがある。 それは、母親=ママ に向いている仕事を紹介していたり、母親向けのサークルだったり、とにかく母親向けのものなんだということがわかる。 それを見ると、心が沈んでいくのがわかる。 パパ○○という父親向けのものは滅多に見かけない。(パパ活は援助交際の新しい名前なのでこれとは関係ない) 母親になった女の人は、母親に

          何を一番にするかは私が決めること

          神をまつ

          かみさま、かみさま、かみさま 疲れているとつぶやいてしまう。 特定の宗教を信心していなくても、漠然と 今の状態から報われたい時 「かみさま、どうかお救いください」 と呟いてしまう。 この「疲れた毎日からどうにか報われたい」という気持ちが何かを信じる気持ちの第一歩なのだろうと思う。 しかし、現実はこの生活から救い出してくれる神も人間も現れない。 自分で環境を変えていくしかないのだ。 「報われたい」という気持ちの報われなさについて考える。 どうすれば報われるのか

          神をまつ

          解釈とその表し方の許容

          私は小学校の中の特別支援学級で非常勤講師をしていて、先日その小学校のある自治体の他小学校の特別支援学級と合同のスポーツ大会があり、スタッフとして参加した。 いくつかの小学校といくつかの中学校が参加し盛り上がった。中学校の生徒は、卒業した小学校の先生や後輩と久しぶりに会えたりして、先生も生徒も嬉しそうだった。通常学級よりも人数も少なく学級での過ごし方も違うので先生と生徒の繋がりもより親密なように感じる。 競技を見ていても、開会式、閉会式などを見ていても「いいなあ」と感じる場

          解釈とその表し方の許容