剣客商売第9巻 第2話 小さな茄子二つ
落合孫六は、小兵衛に言わせると『まるで、二日酔いの古狸を見たような面』なのだそうだが、今、その腹には百両の大金が巻き付けられている。金を貸してくれたのは、根岸の里に住む住吉桂山という絵師。
孫六は、武蔵の国・葛飾郡の宿駅「新宿(にいじゅく)」で道場をやっており、そこへ帰る途中の橋・・・何やら得体の知れぬ物が、闇の中から飛びかかり・・・頭をなぐられて気を失った。
江戸歩き用地図を作っています。
今まで作ったものは「目次」記事でチェックいただけると嬉しいです。
ではでは。机上ツアーにお付き合いいただけますよう。
地図(画像)
➀落合孫六道場は、確定ではありません。「新宿(にいじゅく)」とは、中川橋の辺りだそうです。※現在の[新宿]は、中川橋を渡った先。
義弟が、通った賭博場は、⑤千住橋の北⑦⑥…[千住橋の向うは大千住]
根岸は、この地図では南(地図下方の●の塊部分:⑫⑬⑭が目立っている部分)、落合孫六が襲われた橋は③、反撃した橋は⑪です。※下に詳細図掲載。
・・もっと南の両国橋辺。傘徳が名前を借りた⑧[近江屋庄三郎](ちょっと遠くて、このあたりのセンスが抜群です!)。
四宿(ししゅく):江戸から各街道への出入口にあたる四つの宿場。日光・奥州街道の千住、中山道の板橋、甲州・青梅街道の内藤新宿、東海道の品川の四つをいう。四駅。(出典:コトバンク)
(剣客商売)千住は食売旅籠も五十を超え・・・
地図データ
本文抜書の『51)』等は、文庫本のページ数です。
切絵図はお借りしています。出典:国会図書館デジタルコレクション
ありがとうございます。
「まるで、二日酔いの古狸を見たような面・・・」
55)落合孫六の腹には百両の大金が巻き付けられている。
56)➀新宿にある藁屋根の、自分の小さな道場。この新宿とは、武蔵の国・葛飾郡(東京都葛飾区)の宿駅である。
亡妻よねの故郷で、よねの弟が〔上総屋清兵衛〕という布海苔屋をいとなんでいる。
57)金を貸してくれたのは、②根岸の里に住む住吉桂山という絵師
57)孫六は、根岸川の辺りの小道を北へ向かっている。
雑木林と田地ばかり
58)③根岸川に架けられた橋をわたり、道を東に転じた。この道をすすむと、④下谷・金杉の通りへ出る。
この通りは、⑤千住大橋を経て、日光・奥州の両街道へ通じる道筋。
橋をわたりきった落合孫六へ、背後から呼びかける声がした。
・・・
何やら得体の知れぬ物が、闇の中から飛びかかり・・・頭をなぐられて気を失った。
小兵衛に指示を仰ぐ
60)「不覚者め、それで、このわしの門人といえるか!!」
秋山小兵衛は、落合孫六を一喝した。(⑨小兵衛宅)
65)「今夜のありさまをくわしく話してみるがよい」
69)武蔵の国・南足立郡・千住(現荒川区と足立区に跨る)は、江戸の東北口にあたり、江戸より奥州・日光両街道の第一駅として、むかしから繁盛し、宿駅としての発達も早かった。
千住は、いわゆる〔四宿〕の一で、荒川に架かる⑤千住大橋をはさみ、橋の南、すなわち江戸の方を〔小千住〕とよび、橋をわたってから北へ伸びている宿場町を〔大千住〕とよぶ。
その〔大千住〕の千住四丁目と五丁目の、東側の境に⑥〔小川屋亀蔵〕という古道具屋がある。<裏手・竹藪に博奕場>
傘屋の徳次郎登場
70)この博奕場に、傘屋の徳次郎の姿をみることができる。
●千住は、●品川・●板橋・●内藤新宿と共に、四宿とよばれ、食売旅籠も五十をこえ・・・
傘屋の徳次郎は、⑧本所相生町二丁目の小間物屋〔近江屋庄三郎〕と名乗った。
73)清兵衛は、⑦千住一丁目の食売旅籠〔藤屋善次郎〕方の、お染がなじみ。藤屋の紹介で賭博場へ。今回は傘徳を紹介した。
77)翌日から、傘徳は毎夜・⑥千住へ。賭博場からの帰りは⑦藤屋へ泊り、翌朝は本所の⑧近江屋へ帰る。
日暮れ前に⑨隠宅へ立ち寄ってから、また、⑥千住へ。<7日で150両の穴> 小川屋が根岸の絵師に紹介状を用意してくれる。
作戦
80)地図(小兵衛)ー②絵師の家と⑩和泉屋の寮(独身の頃、三冬が住んでいた)
根岸の和泉屋の寮とは目と鼻の先、金杉・新田にある稲荷の祠
②絵師・住吉桂山の家は、稲荷の祠の西側にある。
86)<住吉宅を出た傘徳>稲荷の祠の前を過ぎた徳次郎は⑩和泉屋の寮の傍道へ入った。徳次郎の提灯が木の陰へ入り・・・すぐまた、北へ揺れ動く。
87)笠次郎の提灯の灯りが、⑪根岸川へ架かる橋をわたろうとしていた。
この橋は、③落合孫六が、わたった橋よりも、いま一つ北へ寄っている。
※私が想像した傘徳が歩いた道(赤線)。現在の道が江戸時代にもあったとしてだが。当時は地図上点線の区界に川があったらしい。この南に石神井川があり、小さい川はたくさんあったらしいので、別の川も???
孫六は、②絵師の家からまっすぐ北へ行き、⑩橋をわたった。
ちょっと遠回りなので、三冬の根岸の寮はもう少し西かもしれない。
※三冬の寮は『庭上の藤が有名な宝鏡山・円光寺の南側にある』。
若き日の小兵衛と桂山
95)「・・・四十余年も前・・・」
麹町に辻道場。道場の裏手に狩野為信という絵師の屋敷。
「桂山は、そのころ、山本春太郎というた」
(メモ)根岸はかつて市部と郡部の境界で、 音無川(根岸川)が流れていました。現在は暗渠ですが、道筋の地下に流れている様子を窺える場所が残っています。(出典:台東区観光ボランティアの会)
宿場と街道(道) 出典:葛飾区史
新宿(葛飾)は、450年ほど前の戦国時代に青戸の葛西城と関連して新しい宿場として整備されました。このころの葛飾をふくむ葛西地域は、小田原(神奈川県)の北条氏が治めていて、新宿は小田原と葛西を結ぶ重要な場所でした。
江戸時代には、旅人などを泊めたり、文書や荷物を運ぶ馬などをとめておく場所となりました。また、新宿は水戸(茨城県)へ行く道と佐倉(千葉県)へ行く道に分かれる場所として発展し、宿屋が並ぶ宿場町として栄えました。
現在の亀有から中川橋を渡った場所から国道6号線に行く途中の、カギ形に道が曲がっている辺りが宿場町の名残です。江戸時代、現在の中川橋の辺りには舟を使って中川をわたる「新宿の渡し」がありました。江戸時代の本には中川のコイがおいしいと書かれていて、宿などでは中川でとれたコイなどの魚を食べていました。
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