地名抜書:「剣客商売」第1巻第5話『雨の鈴鹿川』
第5話 雨の鈴鹿川
はじめに
いつもありがとうございます、初めての方もありがとうございます、お楽しみいただけますように。
江戸への時間散歩(脳内タイムマシン?)ができたらいいな、と、「剣客商売」の地名を辿って、地図を作っています。江戸(東京)を中心に調べておりまして、第5話(奈良・京都、桑名)はペンディングにしていましたが、思いのほか見てくださった方が多く(ありがとうございます)、猛省、地図に起こしてみました。
最初に告白しちゃいますが、力及ばずでたどり着けない場所もあり。例えば、嶋岡の隠居宅(兄の家)は「芝村の大庄屋の屋敷」なのですが、「屋敷の場所」でなく「村の名前」にアイコンを置いています。お含みの上、大治郎の歩いたコースをお楽しみください。
こんごとも、よろしくお願いいたします。
第5話の最初、旅の理由が示される
(抜書)「小兵衛の息・秋山大治郎は、大和の国・磯城郡・芝村➀へ、嶋岡礼蔵の遺髪をたずさえて旅立ち、礼蔵の実兄で、芝村の大庄屋でもある鶴岡八郎右衛門の屋敷へ到着したが、」
※Wikipedia:➀芝村 - かつて大和国式上郡に存在した村落。のちの奈良県磯城郡織田村→磯城郡大三輪町→桜井市。
地図作成
※最初にちょっとネタバレ。
「雨の鈴鹿川」という話の題の場所(死闘があった場所)は、
『⑦石薬師の宿をすぎて目指す庄野までは1里足らず。と、急に・・・
ぴかっと刃が光り、・・・
井上と後藤は、堤の下の、鈴鹿川の河原へ駈け下りていた』
くらいに表現されている場所です。鈴鹿川の中流域の河川敷と思われます。
第5話)地名抜き書き
大治郎、西へ
(抜書)「小兵衛の息・秋山大治郎は、大和の国・磯城郡・芝村➀へ、嶋岡礼蔵の遺髪をたずさえて旅立ち」
目的地到着
(抜書)礼蔵の実兄で、芝村の大庄屋でもある鶴岡八郎右衛門の屋敷へ到着した・・・太字(番号なし)の場所の特定はできていない、ご存知の方はコメントをお待ちしています。
師匠の屋敷・墓へ参る
(抜書)➀芝村から奈良、京都を経て、②山城の愛宕郡・大原の里へ入り、かつて老師・辻平右衛門のもとで五年の修行をおこなった屋敷をおとずれ、旧知の人々に会い、老師の墓にも詣で、3日を過ごした。
※大原(おおはら)は、京都府京都市左京区北東部に位置する小規模盆地及びその地域の名称。出典 http://kyotomoyou.jp/ohara
※古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記された。かつては山城国愛宕郡に属し、南隣の八瀬とあわせて「八瀬大原」とも呼ばれた。
京都③三条大橋から東海道へ
(抜書)秋山大治郎は、大原の里に別れを告げ、ふたたび京へ出て、③東海道を江戸へ下りはじめた。
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話の中心、仇討に巻き込まる
京を発した翌々日の午後に・・・。
健脚の大治郎は早くも④鈴鹿峠を越えて、東海道・⑤関の宿場へ入った。
峠を越えると伊勢の国である。この夜は関から一里半先の亀山城下へ泊るつもりの大治郎であったが、峠を下って坂の下の茶店で一休みしたころから空模様があやしくなった。
関へ入ったときには、雨が本降りとなっていたので、宿の旅籠〔近江屋太兵衛〕方へ草鞋をぬいだ。・・・太字(番号なし)の場所の特定はできていない
(抜書)関は、鈴鹿川北岸の宿場町である。
西は鈴鹿の山脈をひかえ、近江から京・大坂、伊賀の国へ通じ、東は東海道を江戸へ・・・そして伊勢参りの要路でもある。
(抜書)少し行くと、右手に地蔵堂がある。これが⑥九関山地蔵院法蔵寺で、本尊の地蔵尊は行基の作とつたえられ(略)早立ちの旅人の中には大治郎と同様に境内へ入って来て、本堂を拝んでいくので、街道に面した茶店は朝も暗いうちから商売にかかる。
・・・ここで井上に会い、桑名に寄ることになる。
※この「九関山地蔵院法蔵寺」を検索したらヒット。関の宿至近。
(抜書)二人は、関を出て亀山城下から和田野、河合をすぎ、河合川にかかる橋をわたった。
(抜書)石薬師の宿場へ近づいていた。
宿場へ入る手前の左側に、⑦石薬師寺がある。この寺の本尊は薬師如来でいわれも古く、石垣づくりの塀をめぐらした境内は竹林と木立にかこまれ、しずもり返っていた。
※場所が明快な石薬師寺にマーク。
(抜書)揖斐川の河口に近い⑧桑名は、松平下総守十万石の城下町でもあり、東海道は桑名の港から伊勢湾の海上七里を船でわたり、尾張の宮(熱田)へつなぐ。宿駅としても、このような要地であるから、その繁栄ぶりも、およそ察しられよう。
町外れの堀川をわたって、伝馬町、新町の町すじをすすむと右手前方に桑名城が望まれ、濠の彼方は武家屋敷で、外濠をへだてた西側には、びっしりと町屋が立ち並んでいる。
油問屋の平野屋は、東海道・往還から西へ外れた油町にあった。
・・・太字(番号なし)の場所の特定ができませんでした、ご存知でしょうか?お手数ですが、コメントいただけるとうれしいです。
数日後(具体的には桑名に着いてから10日目?)。伊織を②大原の里の老師の(次の目的地)にかくまうことに決め、出立する。
(抜書)あかるくなるまでに桑名の町を出て、一気に⑨庄野の宿場へ入ってしまおうというのだ。
桑名から、石薬師をすぎて庄野まで約七里。昼前に到着できよう。
⑩四日市をすぎるころ、夜が明けた。
石薬師の手前の⑪杖つき坂へかかったとき、雨が落ちてきはじめた。
坂を上りきると鞠ゲ原という草原になる。
もうすぐに石薬師である。
そのとき、後から杖つき坂をのぼって来た馬上の旅人が、四人を追い越して行った。
(中略)雨合羽もつけず、何も食べず飲まずに、四人は一気に石薬師の宿場を通り抜けた。目指す庄野までは、後一里足らずであった。
鈴鹿川に沿った街道が、庄野の宿場へ近づくにつれて、いくらかのぼりになる。※⑪なんと杖つき坂(杖衝坂)でヒット。何カ所かあるかもで、そうしたら⑪の場所はアウトかも・・・
戦闘が始まる。>>>
井上八郎と後藤伊織は堤の下の、鈴鹿川の河原へ駈け下りていた。
二人を、五人のさむらいが包囲している。・・・
「後藤さん、川を渡って逃げなさい、後はひきうけた」
後日談と当初の旅予定より超過した一カ月に辿ったであろうコース(地図に起こしていない)
(p227)江戸へ帰って、父にこの事件を報告したのは、それから一カ月ほど後のことであった。
「それで、井上と伊織は、ぶじに大原へ?」
「はい、私がつきそい、村方へはなしをいたしまして・・・」
その段取りは、p222。庄野〔石見屋喜兵衛〕宿、平野屋宗平の遠縁。昼前に入り、夜更けに庄野を出て、東海道を通らず、間道づたいに、四里先の関の町まで行く。そのまま関を抜け、東海道から外れて伊賀の国へ。
伊賀上野から、松之助(平野屋宗平の信頼できる奉公人)の故郷の島ケ原(伊賀)へ行き、様子を見きわめたうえで奈良へ入り、奈良から京都を経て、②大原の里へ到着。