剣客商売第16巻 浮沈
第16巻で「剣客商売」本編終了。あとは番外編です。
第16巻は全体で一つの物語、26年前の敵討の回想で始まります。
「浮沈」では、かつての門人の成功と没落・再起が描かれます。いろいろの人生、長い時間の中、良いことは悪いことへ・悪いことは良いことへ。その底流に、歴史上の人物である田沼意次の浮沈が描かれ、物語を深く厳しいものにしています。
さて。幕開き、舞台は深川十万坪。小兵衛の相手の名は、山崎勘介。
滝久蔵は父の敵・木村平八郎と斬り合っている。久蔵は小兵衛の門人で、父の敵を討つため、熱心に稽古を積んでいた。小兵衛と山崎勘介は、助太刀としてこの場に来た。
今まで作ったものは「目次」記事でチェックいただけると嬉しいです。
切絵図はお借りしています。出典:国会図書館デジタルコレクション
ではでは。机上ツアーにお付き合いいただけますよう。
地図(画像)
1 深川十万坪
地図1-1 26年前(1758)・・・深川十万坪
『深川十万坪』とは、この辺りと思われる。
深川の商人が発起して新田開発。「千田新田」「海辺新田」と呼ばれている。➀の位置が千田稲荷。新田開発後、一部に一橋屋敷ができる。
北側の流れは小名木川、南側は仙台堀と呼ばれる。小名木川・仙台堀を南北につなぐのは、西・横川、東・十間堀川である。
(本文)10)小兵衛が山崎と斬り合ったのは、➀千田稲荷の小さな、名ばかりの社殿の裏手で、滝久蔵が木村平八郎と斬りむすんだのは、➀西側の草原だ。
地図1-2 26年後>秋山小兵衛六十六歳の天明4年(1784)秋
新蕎麦の季節、小兵衛は思いついて〔万屋〕へ(赤ルート)。
(本文)23)小兵衛を乗せた舟は、●大川から⑤仙台堀へ入り、おはるが竿をさばいて、④亀久橋・南詰の船着き場へ舟を着けた。④〔万屋〕という蕎麦屋は、亀久橋の北詰。舟は、南詰の④船宿〔立花〕へあずけた。
おはるが又六をよびに行く間に、滝久蔵があらわれ、追い出される。
入れ違いに入って来たおはる・又六。
小兵衛は又六に滝の尾行を頼む。←青ルート
(青ルート)久蔵は、⑥平野町の陽岳寺という寺へ入って行ったという。
32)このあたりは、油堀をはじめ、大小の運河が錯綜しており、⑥陽岳寺の門前も、三つの運河が合流している。その門前の、運河の辺りにある⑨〔三好屋〕。又六と懇意の三好屋は、その浪人を常連客と言い、よい客なのだという。
裏表のある滝久蔵のことを、小兵衛は危うく感じたようだ。
滝は小兵衛の弟子である。小兵衛にとって師とは親と同じもの。門人はいつまでもかわいい弟子なのである。
陽岳寺周辺の切絵図。×印:三好屋<以下・地図1-2-1,2>
地図1-2-2 上の切絵図に対応する部分(↓の地図)
※ すでに堀は埋め立てられ、地図上には橋もない。ベージュの道(高速道路)は、かつての油堀(⑪猪口橋先の公園を「油堀川公園」という)
地図1-3 四日後。小兵衛は深川へ
46)小兵衛は深川へ行くことにした。
④亀久橋の南詰から、わざと遠回りに、先日の滝久蔵が通ったと思われる道すじをたどり(地図1-2青ルート)、⑩佐賀町代地の掘割沿いの道へ出た。掘割にはぎっしりと舟が舫ってあった。
47)細い運河に架けられた小さな橋の向うに、⑥陽岳寺の土塀。左、⑨黒江橋の南詰に、⑨三好屋という居酒屋。⑥陽岳寺の門前には橋が三つ。
舟の中からひょいと顔を出した男。橋を三つ渡って来た。
「おお、お前さんが豊次郎さんかえ?」
<先程、見かけぬ男が陽岳寺へ入りまだ出て来ない、との報告>
49)(寺から出て来た)浪人は、山崎勘助が生き返ったかに似ている。
⑥陽岳寺を出て、平野町の角を右へ曲った。右手に、法衆寺(ほっしゅうじ)、玄信寺(げんしんじ)、心行寺(しんぎょうじ)などの寺院がぎっしりと立ちならんでいる。
浪人は⑤仙台堀へ出ると⑫海辺橋を北へ渡り、河岸(かし)沿いの道を東へ。・・・下の地図の⑤のあたりか。
道の先に、➀深川十万坪がある。二十六年前に滝久蔵が敵を討ち、小兵衛が助太刀をした場所である。
下の地図は、第2話『暗夜襲撃』の最初の部分を含んでいます。
2 暗夜襲撃
51)小兵衛は尾行する・・というか、付いて行く。
(地図1-3)第一話では、「東へすすむ」まで。第2話ではその続き・・崎川橋から。小兵衛と浪人は⑭大栄橋で対面。
「あなたが知り合いにそっくりだったので、ついてきました」
果たして、浪人は、山崎勘介の子だった。
山崎勘之助は、父を知っているという小兵衛を自宅へ招く(扇橋・東詰、釣道具屋〔丸屋与市〕二階)。・・・ここは、後日、傘徳が見張ることになる。
地図2-1 山崎勘之助(生駒筑後守・屋敷)
山崎勘之助が⑮丸屋から出て来、⑲下谷・御徒町の立派な武家屋敷(七千石の大身旗本・生駒筑後守信勝)へ入った。・・(傘徳尾行)
地図2-2 神谷新左衛門宅訪問
事情を掴むため、小兵衛は、兄弟子、神谷新左衛門を神田駿河台の屋敷に訪ねる。
「生駒筑後守様について、ご存じか?」
小兵衛の唐突な質問に、神谷は事情を知らなければ答えもできない、といい、親身に聞きとる。後日(たしか5日後)、調べたことを伝えにきた。
地図2-3 おはる(舟で山崎勘之助宅へ)
金貸し・平松多四郎が滝久蔵を訪ねていることが判明。
小兵衛は、深川にいたほうが便利と判断、又六宅へ寄寓することとした。まず、蕎麦屋〔万屋〕へ。おはるに又六宅へいってもらう。
万屋で滝について聞くと「初めての客」という。(滝は、旅の恥は掻き捨て的男なのだろうか?)
又六宅から帰って来たおはるに、もう一度使いを頼み、山崎勘之助への手紙を託す。
<おはるの舟ルート>
滝久蔵は、寺から家を借りているだけ(商家の紹介)、勘之助は陽岳寺が菩提寺であって、関わり合いはなかった。小兵衛の心配は杞憂で、勘之助に敵討(最悪、滝への遺恨)の気持ちなく、第一、滝を知らなかった。
山崎勘之助との話合いは後味が良く、小兵衛は『もう、隠宅へ帰ってもイイか』と思う(深川泊を決めたばかり!滝さんはどうするの??)。
地図2-4 本郷・春木町
深川を去る前に、本郷・春木町に住む、平松多四郎を訪ねる。
富岡八幡宮の門前で大きな桐箱に菓子を詰めてもらい、持参する。
地図2-5 暗夜襲撃(小兵衛は、4人で五鉄へ)
二日後、小兵衛は隠宅へ戻った。
弥七の話を聞いて何となく気になった小兵衛は、深川へ行くことにする。
おはる、弥七と傘屋の徳次郎と4人で、⑯五鉄へ(楽しんだ!)。
予定通り⑤小川宗哲と碁を囲むが、早めに帰宅・・御竹蔵を通って、大川沿いの道へ。そこで斬り合いに遭遇(×印)
3 浪人・伊丹又十郎
斬り合いで重傷を負っていたのは山崎勘之助だった。仰天する小兵衛。
おはるが小川宗哲先生を呼んできた。
山崎勘之助は、出血多量で命の危機にあった。亀沢町(小川宗哲の病院)まで運ぶのは難しい。
⑰の三島邸へ担ぎ込んだ。・・・地図2-5参照
<滝久蔵の仕官>
弥七の手先である豊次郎は、三日前に、⑥陽岳寺から出て来た滝久蔵の尾行に成功した。
深川から本郷へ出た滝久蔵は、㉖神田明神社・門前の茶屋〔翁屋〕で、立派な身なりの侍と待ち合わせ、共に、㉗湯島明神社の西側にある㉘幕府の御徒士の組屋敷へ入った。出て来たとき、豊次郎は連れの侍の尾行を決意。
侍は町駕籠を拾って(㉗の北側)湯島の切通しを東へ下り、⑲下谷・御徒町の、一角にある武家屋敷(⑲六百石の旗本・諏訪伝十郎)へ入って行った。
※小兵衛は、猟官活動に必要な金に思い至り(借金?)嫌な予感が・・・ただ、滝久蔵の仕官が成れば心配ないと思いもし、迷った末、弥七に
「陽岳寺は、もう、見張らずともよい」
メモ>⑲下谷・御徒町には、山崎勘之助が通う生駒筑後守の屋敷もある。
切絵図:㉗湯島明神社の西側にある㉘幕府の御徒士の組屋敷。
春木町とは、目と鼻の先。
地図3-3 <勘之助が襲われた翌日・小兵衛>
⑰本所・石原町の三島房五郎宅へ様子見。
大橋を渡り、⑲〔駕籠駒〕千造と留七を指名、「㉑本郷の春木町」と。
㉑平松多四郎宅(滝久蔵の借金二十両判明)→⑰本所(三島邸の門口に怪しい浪人)。
本所・三島邸には、小川宗哲が来て、手当をしていた。
泊るという小川宗哲に頼んで、小兵衛は隠宅へ向う。尾行者あり・・大川沿いの道へ出たあと、話しかけてきた。一瞬の殺気。が、侍は去った。
小兵衛は、三島邸へ引き返し、護衛(佐々木要に使いを頼む)することにした(小川宗哲と佐々木要には帰宅してもらった)。
翌日、おはるが案内して、神谷新左衛門が来る。小兵衛は㉙原治に誘う。
この㉙原治とは、本文中『●両国橋の東詰に、元禄のむかしから続く㉙蕎麦屋〔原治〕』とあるが、『1702(元禄15)年に赤穂浪士が討入前に集結した(画報)』(出典:https://edo.amebaownd.com/posts/3395069/)だそう。
冬の足音が近い。山崎勘之助の傷も癒え、移動可となり、隠宅へ。
地図3-2<佐々木勘之助、関係図>
遺恨を持っているのは、㉙木下求馬の父、木下主計と、兄の主膳。住まいは㉙麻布長坂。その手先・・㉒伊丹又十郎(小兵衛と因縁)
決闘の原因となった剣術道場は、㉔巣鴨、一刀流・佐々木勇造の道場。
神谷談(in蕎麦屋〔原治〕)
「大身旗本の⑲生駒筑後守は若いころに、㉔巣鴨の佐々木勇造の許で、剣術の修行をしており、心をゆるした同門の剣友があったそうな。それが死んだので、いまは、その息子に肩入れをしているということを聞いた」
山崎勘之助は、御徒町に月二回ほど、殿様に会いに行く。仕官を勧められているが、恐れ多くて辞退している(火急のときは命を捨てる覚悟)
「佐々木勇造が死んだときに、道場でもめ事があって、その息子が同門の男を二人(←木下求馬と腹心)ほど斬って捨てたらしい」
山崎勘之助は、⑮釣道具屋の二階に隠れ住んでいた。×地点で襲われた。
小兵衛は色々、得心する。
地図3-3 <伊太郎のしょうもな>
父親には、借金の取り立てに行く、と言いながら、岡場所で遊んだ伊太郎は、深川(滝久蔵)へ行くも、長話の末、一銭もなしで帰宅。
よい話は、滝が仕官成って月末には半金返すので、多四郎に来てもらいたい、と言ってきたこと。
春木町から根津権現:2k弱。根津権現から陽岳寺:7㎞。帰宅:5㎞強
3話の最後、伊丹又十郎が隠宅へあらわる。秀が追い払うが・・・
4 霜夜の雨
「あの男は、わしと同じ無外流を遣う伊丹又十郎という男じゃ」
同じころ、平松多四郎は、滝久蔵を訪ねている。
150)<滝は利子3両だけ返し、証文の書き換えに成功する>
伊丹又十郎があらわれたことへの小兵衛の対応は早かった。
翌々日、11月28日朝、おはるが隠宅へあらわれ、続いて、昼過ぎには、小川宗哲が〔駕籠駒〕の駕籠に乗って治療に来た。隠宅を出て、堤の道をあがって行く宗哲を、秀が見送りに出た。
その夜。隠宅の庭の闇の中に、ひっそりと一つ二つ、人影が動き出し・・・小舟が揺れ、鯉屋へ。駕籠が待っていた。
「下谷・御徒町の、生駒筑後守様の屋敷へ送りとどけてきた」
伊丹又十郎が木下父子に雇われていることも分かった。
これからも、隠宅に勘之助がいると思わせなくてはならない(家の中をみせない・・・危険なのでおはるは避難、などいろいろたいへん!)。
地図4-2<鳥居坂下・料理屋〔一文字屋又七〕>
翌29日の昼すぎ、麻布の鳥居坂下・料理屋〔一文字屋又七〕へ木下主膳があらわれた。伊丹又十郎との密談・・・
木下父子の屋敷があるのは、㉙長坂町
12月1日。滝久蔵を訪ねた平松多四郎は、しらばっくれる滝に、町奉行所へ訴え出た。町奉行所は、訴えた相手が御徒士と知ると「追って沙汰を」と、はかばかしい対応でない。翌日、そしてその二日後。
伊太郎を父を送り出した。
奉行所は、北町奉行と南町奉行があり、地域による担当ではなく、月番であった。どこに訴え出るかは、調べてもよくわからない。ここまで来て書類を出したのだろうか?
借金の訴えでは、先ず、和解を勧められるそうだ。平松は、相手が御徒士であったため、すぐに評定所扱いとなり、色眼鏡で見られて死罪・・・ひどすぎる。詐欺師とされてからは、日本橋・伝馬町の牢にいたのだろうか?
ちょうどそのころ。
一文字屋の離れに、木下主膳と伊丹又十郎が会っている。
(このように、ドラマが並行して進むのも剣客商売っぽい)
伊丹は、腕の立つ男を呼べという(立場が強くなっている)
平松多四郎は、やっと、滝久蔵のたくらみに気づく。すでに遅い。
帰って来ない父親、評定所の相対吟味の不調・・・伊太郎は不安で倒れそうな女中のお元よりも深い不安をおぼえた。
そのころ。
伊丹は、槍を遣うあの浪人(牛窪為八)と、一文字屋の離れで、酒をのんで・・「明日、押込もう」。
5 首
翌々日の朝・・・と言っても、まだ辺りは暗かった。
二人の浪人は襲ってきたが、待っていたのは、山崎勘之助ではなく、大治郎であった。牛窪為八は絶命。伊丹は逃げた。
すでに、弥七・傘徳によって全て調べられていたのだ。
地図5-1<評決の日の伊太郎(証文があるから大丈夫)>
その日も、平松伊太郎は、根津の〔越後屋〕でお篠と遊んでいた。
根津を出て、宮永町から茅町へ・・湯島の切通しへ出た。
評決は死罪。死刑の前日に面会が許されたが、見張りがいて、何も話せず、ただ、見交わすのみ。・・翌日多四郎は、首を切られた。
このことを、伊太郎が鐘ヶ淵の隠宅へ小兵衛を訪ねて語ったのは、三日後になってからだ。首は小塚原の刑場にさらされているそうな。
「父の首を奪い取ってまいります」
「明日の夜に行くとしようか。助太刀する」
地図5-2 <多四郎の首を取りに行く>
(赤ルート)小兵衛は本郷五丁目・瓢箪屋に滝久蔵を呼び出し、釘を刺す。
「わしの恩人をその口先で殺したな。わしはその子の助太刀じゃ」
(本文206)『「道を外れたことをしたつぐないをせよ」
そういった小兵衛の声には、無限の愛情がこもっている。』
(メモ:朝、隠宅を出発、駕籠で本郷へ。引き返して鯉屋で待つ)
その夜。空に雲が出て来た。
(黒ルート)橋場の鯉屋で伊太郎と落ち合う。11時まで奥座敷にいた。
山谷・浅草町・・小塚原の刑場へ。首尾よく、首を奪い取った。
伊太郎は信頼する市ヶ谷・道林寺へ首を届ける。その足で江戸を出た。
(メモ:伊太郎は昨日・下見。昼間は首を入れる箱を自作)
地図5-3<伊丹又十郎>
弥七と傘徳が探り出したところによると、伊丹は駒込・片町の吉祥寺裏の元は植木屋だった小さな家。浪人と住む。
天明4年(1784)も暮れようとしている。
弥七と傘徳は、武蔵屋の板前が腕によりをかけた節料理をもって隠宅へ行く途中、両国橋で伊丹を発見。傘徳が尾行。伊丹たちは亀沢町をうろうろ。その後、〔原治〕の奥座敷へ。その奥座敷へ3人の浪人が入って行った。
小川宗哲宅の警備開始。
6 霞の剣
天明5年(1785)になった。小川宗哲宅の警戒はつづいている。
本所の緑町三丁目には、金五郎という御用聞き「まかせておきなせえ」
ちかごろの又十郎は、船宿の舟をつかい、鐘ヶ淵の辺りまでくる。
小兵衛は、弥七に駒込の様子を見に行ってもらった。
1月もわずかの日を残すばかり。
或る日、四谷の弥七がきて、木下主計の病死を告げた。それとは別に、噂通り、老中・田沼意次の加増(祝)。だが、小兵衛は悪い予感をもった。
その翌日から、秋山小兵衛は大治郎の家へ身を移し、鍛錬を始めた。
三日後。夜も更けてから、四谷の弥七が駆けつけて来た。
「小川宗哲先生が消えてしまいましてございます」
「いま、徳次郎を駒込へ走らせて、又十郎一味を探らせております」
道場前に駕籠が二挺。秋山父子が乗り、弥七が付き添った。
地図6-1 <宗哲先生救出行Ⅰ>
大治郎宅→大川沿いの道→上野→湯島の切通し→本郷通を北へすすむ。
駒込の肴町まで来ると、駕籠を降り、駕籠を返した。
地図6-2 <宗哲先生救出行Ⅱ>駕籠を降りてから
駒込・片町の辺りで、細い道を右へ曲る。曲がりくねった道は突き当って、左右に分かれる。弥七は左へ。植木屋が多い。徳次郎があらわれた。
道は、吉祥寺の裏手へさしかかっている。
道の左は畑。畑の中の雑木林にわら屋根の家。
地図データ
上の地図のデータです、地名等について、本文の書き抜きをしています。また、江戸時代の地図で場所の特定など・・。
なお、本文抜書の『51)』等は、文庫本のページ数です。
深川十万坪
<26年前 山崎勘介との出会い>
7)相手の名は〔山崎勘介〕
滝久蔵は、父の敵・木村平八郎と斬り合っている。
久蔵は小兵衛の門人で、父の敵を討つため、熱心に稽古を積んでいた。
小兵衛と山崎勘介はこの決闘の助太刀としてこの場に来た。藩邸から立会人が別に来ていた。
8)場所は、➀深川の千田稲荷裏手の草原であった。
このあたりは、俗に「➀十万坪」と呼ばれている埋立地で、享保のころ、深川の商人が幕府へ願い出てゆるされ、十万坪の新田開発をした。
(付)千田稲荷(現宇迦八幡宮)
土地の人びとは、このあたりを「➀千田新田」とか「➀海辺新田」とかよんでいるが、人家もなく、田畑も少ない。一面の葦原に松林が点在するといった風景で、近くに●木場(江戸の材木商が集中している町)や、●八幡宮の盛り場があるとは思えぬほど、景観は荒涼としていた。
ときに宝暦八年(1758)11月というから、秋山小兵衛は40歳で、26年も前のことになる。
9)滝久蔵は、越中・富山十万石、前田出雲守の家来で、滝源右衛門の子。
敵の木村平八郎も同じ富山藩士であった。
10)小兵衛が山崎と斬り合ったのは、➀千田稲荷の小さな、名ばかりの社殿の裏手で、滝久蔵が木村平八郎と斬りむすんだのは、➀西側の草原だ。
二十二歳の滝久蔵は両手をついた。
「先生のおかげでございます」
11)このことがあってから、秋山小兵衛は、剣士としての精進がちがってきた。
<平松多四郎>・・・●四谷・仲町、小兵衛道場
12)この決闘の翌日。客が来た。
「先生。また、あの禿狼がやってきましたよ」
見るからに薄気味の悪い、平松多四郎であった。年齢は35歳。
13)平松多四郎が、両刀を捨てて、金貸しになってから五年目になる。
小兵衛は、門人が増え、道場の改築の費用がおもいのほかにかかり、やむなく金を借りた。
平松多四郎は、●秋山道場から程近い、②鮫ヶ橋表町に住んでいた。
15)「つい先ごろ、妻に死なれまして・・・」
「何分、子が生まれたばかりのことで、私も困惑しております」
<新蕎麦・深川の万屋>
18)このあたりで、はなしを、秋山小兵衛六十六歳の天明4年(1784)秋に移したい。
その日の朝。
「おはる、舟を出せ」
19)「もう新蕎麦が出たろう。久しぶりで、④深川の万屋へ行ってみようではないか」
小兵衛は川面をみながら26年前の決闘のことをおもい出していた。
21)(久蔵はどうしているか)
というのは、この夏の或る日に、●浅草寺の境内で神谷新左衛門と出会った
22)「先ごろ、富山藩にいる岩倉という男にであってなあ、滝のことを尋ねてみたのだ・・もう富山にはいないそうだ」
小兵衛はもちろん知らず、連絡もないのか、と小兵衛のために腹を立てた。
23)小兵衛を乗せた舟は、●大川から⑤仙台堀へ入り、おはるが竿をさばいて、④亀久橋・南詰の船着き場へ舟を着けた。
24)④〔万屋〕という蕎麦屋は、亀久橋の北詰にある。
近くの④船宿〔立花〕へ舟をあずけた。
※船宿〔立花〕は、亀久橋の南詰にある。
25)「いまごろなら又六が家にいよう。よんで来てくれ」
おはるは出ていった。
<滝久蔵>
26)そのとき、乱暴に戸障子が開いて、大男が一人、ぬっと店の中へ入って来た。
大男の浪人は、まさに、滝久蔵だったのである。
小兵衛はすぐにわかったが、久蔵は気づかなかった。
29)<その後、無礼な態度をとったために、蕎麦屋の主人に追い払われた≻
30)鰻売りの又六が、おはるの後ろから入って来たのは、このときだ。
小兵衛が又六を手招きし
「いま此処から出て行った浪人を見なかったかえ?」
「はい、④亀久橋の上で擦れちがいました」
「後をつけ、居場所をたしかめてくれぬか」
久蔵は、⑥平野町の陽岳寺という寺へ入って行ったという。
32)このあたりは、油堀をはじめ、大小の運河が錯綜しており、⑥陽岳寺の門前も、三つの運河が合流しているそうな。
その門前の、運河の辺りにある、⑨〔三好屋〕という小さな居酒屋へ又六は入って行った。
⑨三好屋は、又六の得意先で、又六の売る魚を、待ちかねるようにして買ってくれる。
「⑥陽岳寺にいる浪人さんは、もう一年余も住みついている」
翌朝、●鐘ヶ淵へあらわれた又六から話を聞いて、印象の違いに違和感(いやな予感)をおぼえた。
33)それから一刻(2時間)ほど沈思していたが、弥七へ手紙を書き、●木母寺へたのんだ。
弥七がやって来たのは夜になってからであった。
37)三日目に又六が●隠宅にあらわれた。杉原秀と一緒である。秀は妊娠していた。
44)翌日、弥七がやって来た。滝久蔵について特に動きはないという。
46)小兵衛は深川へ行くことにした。
④亀久橋の南詰から、わざと遠回りに、先日の滝久蔵が通ったと思われる道すじをたどり、⑩佐賀町代地の掘割沿いの道へ出た。
47)細い運河に架けられた小さな橋の向うに、⑥陽岳寺の土塀が見える。左へ視線を転ずると、⑨黒江橋の南詰に、又六から聞いていた⑨三好屋という居酒屋がある。
⑥陽岳寺の門前には橋が三つ。掘割にはぎっしりと舟が舫ってあった。その中の一つから顔をのぞかせ、⑥陽岳寺の方をながめていた男が、小兵衛の姿を見るや、立ち上がって陸にあがり、二つの橋をわたって声をかけてきた。
「おお、お前さんが豊次郎さんかえ?」
「はい」
≻ 広域図にすると・・・永代橋・富岡八幡宮の位置をご覧下さい。
48)「つい先程、今までに見ねえ顔の浪人が入ったきり、まだ出て来ません」
その男の顔を一目見て、小兵衛の顔色が変わった。
「わしが尾けてみよう」
49)大男の浪人は、山崎勘助が生き返ったかのように似ている。
⑥陽岳寺を出た大男の浪人は、⑦平野町の角を右へ曲った。
このあたりには、⑦法衆寺(ほっしゅうじ)、玄信寺(げんしんじ)、心行寺(しんぎょうじ)などの寺院がぎっしりと立ちならんでいる。
浪人は⑤仙台堀へ出ると⑫海辺橋を北へわたり、河岸沿いの道を東へすすむ。
この道をどこまでも行けば、➀深川十万坪へ出るのだ。いうまでもなく、そこは二十六年前に滝久蔵が敵を討ち、小兵衛が助太刀をした場所である。
暗夜襲撃
<深川十万坪>
51)➀深川十万坪も、二十六年前とはおもむきが変っていた。
その南端、すなわち⑱石島町のあたりには、民家や、板屋根、藁屋根の漁師の家も増えていた。みすぼらしかった➀千田稲荷の社殿も少し大きくなり、石の鳥居がある。
と言っても、一歩、裏側へまわると、荒涼たる景観はむかしのままで、一面葦原がひろがっている。
<件の男>
件の男は、⑬崎川橋の北詰から⑭大栄橋をわたり、⑰石原町へ入った。
⑭大栄橋をわたりきったところで、また、男は足をとめ、後ろを振り返った。
52)小兵衛は⑭大栄橋をわたりきり、男の前へ、ゆったり近づき、声をかけた。
互いに名乗った。男の名は山崎勘之助、山崎勘介の子であった。
勘之助は小兵衛の名を知らなかった。
57)三日後、●鐘ヶ淵へあらわれた、四谷の弥七に、小兵衛はあますことなく語った。
あれから、山崎勘之助は、⑧小名木川に面した⑮扇橋町の釣道具屋〔丸屋与市〕方へ、小兵衛をいざなった。その丸屋の二階に住んでいた。
58)弥七は、
「私もようやく、お上の御用が住んだので、明日から豊次郎と一緒に⑥陽岳寺を見張るつもりでございます、へえ、傘徳の病気も、すっかりよくなりましたから、存分にはたらいてもらうつもりでございます」
<大身旗本・生駒筑後守>
58)傘屋の徳次郎が、⑮釣道具屋・丸屋与市方の見張りを開始したのは、その翌日。
この日の昼すぎ、山崎勘之助が⑮丸屋から出て来たので、尾行にかかった。
59)勘之助は、⑲下谷・御徒町の立派な武家屋敷へ入って行った。
七千石の大身旗本・生駒筑後守信勝の屋敷。
59)次の日の朝。
60)おはるの舟で対岸にわたった小兵衛は、歩いて●山之宿まで行き〔駕籠駒〕で⑳駿河台まで、と、頼んだ。
旧友で、秋山小兵衛より三つ年上の神谷新左衛門の屋敷は、いま、⑳神田駿河台にある。
小兵衛は、生駒筑後守について尋ねた。
「おい、秋山、水くさいな。相談にも乗れぬではないか」
「そうよな、いざとなれば、おぬしにたのむより仕方ないことだし」
小兵衛は子細を話すことにした。
<金貸し・平松多四郎の登場>
ちょうどそのころ、⑥深川の陽岳寺の門前へ一人の老人があらわれた。
63)老人は、金貸しの平松多四郎であった。老人の後をつけて行くと、
「㉑本郷の春木町で、寺子屋をしておりました」
寺子屋をする一方で、多四郎は依然、金貸しをしているらしい。
だが、弥七は平松の名前など忘れてしまっていたし、小兵衛もおもい出さなかった。…会話の中で、思い出す(滝久蔵は借金?・・なんとなく悪い感じ)。
64)翌日になると、小兵衛は、
「しばらく、外で暮すぞ」
おはるにそういって、深川まで舟を出させた。●深川・島田町の長屋には、鰻売りの又六が老母と共に住んでいる。そこへ身を移そうというわけだ。深川に小兵衛がいたら連絡がしやすくなる、弥七も賛成だった。
<滝久蔵の良い顔、悪い顔>
65)深川へ着いた秋山小兵衛は、先ず、④蕎麦屋の〔万屋〕へ入り、おはるに又六を呼ばせにやってから、蕎麦屋の亭主に滝のことを聞いた。
「いいえ、はじめてでございます」
これで常客でないことが知れた。
久蔵は、⑨陽岳寺門前の居酒屋〔三好屋〕ではよい客をしている。
66)すると、店によって、久蔵の印象が大分にちがってくることになる。
<勘之助との邂逅>
66)おはるが店へもどって来た。
「すまぬが、別のところへ使いに行ってくれぬか」
「⑧小名木川の⑮新高橋を知っていような」
小兵衛は懐紙に筆で
67)「ここが⑮新高橋、こっちが⑮扇橋だ。その⑮扇橋の東詰、丸屋という釣道具屋がある。そこに、山崎勘之助という浪人がいる」
山崎へ手紙を書き、おはるにわたす。おはるは飛び出して行った。
おはるは、近くの④船宿・立花へあずけてある小舟で⑤仙台堀を東へすすみ、⑬崎川橋下を潜ってから堀川を左折し、⑮扇橋へ向ったのだ。
おはると入れちがいに、又六が④万屋へあらわれた。
68)「わしが今夜から泊る、おふくろに秀とのことを説得してみよう」
又六もおはるも帰って間もなく、山崎勘之助が顔を出した。
小兵衛は、勘之助の父との経緯を語った。
さすがに、勘之助の顔色は変わったが、落ち着いている。
69)「そのことを打ちあけてくれた人があります。巣鴨に一刀流の道場をかまえておられた佐々木勇造先生でござる。亡き父とは、無二の親友だったそうで」
72)「(敵討や真剣の勝負は)望みません。亡き父のことをおはなし下さい」
小兵衛は、酒を奥にたのむと、自分を圧倒した山崎勘介の剛剣について語った。
「私も、四人ほどの人を斬っております。それに関わる人々の恨みを背負う身でござる」
そう、勘之助が語り、二人のはなしは、そこで尽きた。
73)小兵衛は外まで勘之助を見送りに出た。
勘之助は、⑤仙台堀川に沿った道を東へ歩んでいく。
これを見た浪人風の男がひとり、平野町の商家の軒先から出て来て、勘之助を尾けはじめ、小兵衛はこれに気づかなかった。
74)深川には、仙台堀の政吉という御用聞きがいて、土地(ところ)の評判も良く、四谷の弥七とも仲がよい。:弥七は探りを入れてもらうことにした。
75)小兵衛は、山崎勘之助に、すべてを打ちあけたので、心がさっぱりとした(もう、よいわ)。明日にも●鐘ヶ淵へ帰るつもりになっていた。
<深川を去る前に、平松多四郎を訪ねた>
翌日、小兵衛は、●富岡八幡宮・門前の菓子舗〔橘屋〕へおもむき、名代の〔末広おこし〕を大きな桐箱に詰めさせ、見送りに来た又六へ
「日暮れまでには帰る」
いい置き、町駕籠を拾うと、●永代橋を西へわたって行った。
㉑本郷・春木町の金貸し浪人の平松多四郎を訪ねた。
76)「あのとき、生まれたばかりの男のお子は、お達者か?」
「はい。あれから間もなく、こちらへ移りまして・・・」
「伊太郎さんはいくつになられた?」
「二十七歳になります」
「会いたいですなあ」
すると多四郎は苦虫を噛み潰したような顔つきになり
「きゃっめ、手伝わせているうち、悪い遊びをおぼえてしまいましてな・・・㉓根津権現・門前の岡場所にでも行っているのでありましょうよ」
「ははあ」
79)秋山小兵衛は、以前の借金についても熱く礼をのべ、菓子箱をたずさえて、
「つい、なつかしく思い、立ち寄りました」
このようなことは、多四郎にとって、はじめてのことといってよい。
「今度は私が、●ご隠宅をお訪ねします。深川あたりへも用事がございますから」
79)一礼して、秋山小兵衛は㉑春木町三丁目の通りへ出た。左へ行けば本郷通、右へ行けば湯島の切通しを下って池の端へ出る。
小兵衛は伊太郎と出会い、話すうち、
「ま、その辺で蕎麦でも」
・・・(若者らしい伊太郎と捌けてこだわりのない小兵衛)
伊太郎と小兵衛は、いっぺんに打ち解けた。
「伊太さん。これから先、何か困ったことがあったら、いつでもおいでなさい。相談に乗るよ」
「ありがとうございます」
<弥七・傘徳、おはると4人で〔五鉄〕へ>
86)「はい、その女は根津で牛蒡の化け物とか、牛蒡女とか、うわさされているようでございますよ」
三日後の日暮れ方に、●小兵衛の隠宅を訪ねてきた傘屋の徳次郎が告げた。
秋山小兵衛は、昨日の午後から、●深川の又六の家を引きはらい、●隠宅へ帰って来ている。
⑥陽岳寺を見張っている豊次郎のみを残し、深川から引きあげることにしたのである。
四谷の弥七があらわれた。
87)滝は、ちかごろ身なりをきちんとして何処かへ出かけていくようになった。途中、舟に乗ってしまうので、行先は不明。小兵衛は落ち着かなくなる
88)「そうだ、⑯二つ目の五鉄へ行って軍鶏鍋でもやろうか。おはるもおいで」
四人で●堤の道をあがって行った。
88)それから⑯〔五鉄〕へ行き、おもうさま、食べたり飲んだりしてから、小兵衛は弥七たちと別れ、おはるを連れ、程近い、●本所・亀沢町の小川宗哲宅へ向った。
碁敵の宗哲が、これを、よろこんで迎えたことはいうまでもない。
89)しかし、小兵衛はおはるを待たせていることだし、長居をするつもりはなかった。
小川宗哲宅をでた秋山小兵衛は、幕府の御竹蔵を抜け、大川端の道へ出た。
左はまんまんと水をたたえた大川がひろがり、右側は内藤・阿部といった大身旗本の屋敷である。
90)その中程に、ひろい空地があった。
・・・空地の奥のほうで、数名の者が斬り合っているらしい。
<小兵衛介入≻
曲者どもは、道を北のほうへ逃げて行く。その数は六人と見た。そのうち数人、おそらくは三人ほどは、小兵衛から傷を受けているにちがいない。
空き地へもどった小兵衛は、提灯のあかりで、草むらに倒れている人影を見つけた。その人は・・・
おもわず、小兵衛は、おどろきの声をあげた。
浪人・伊丹又十郎
<山崎勘之助の受難> 空地→石原町・三島宅
96)重傷を負い、倒れていた男は山崎勘之助であった。
97)おはるは提灯を受け取ると、小川宗哲を迎えに大川沿いの道を南へ去った。
刀の傷は、それほど重いものではなかったが、左の太股を手槍で突き刺されてい、出血がひどかった。
やがて、宗哲がおはると共にあらわれた。
98)すぐに、小川宗哲は山崎勘之助の傷をあらためた。
「だが、わしのところへ運んでいくとなると、さらに、出血してしまう」
⑰石原町に住む御家人で、三島房五郎という知りあいの家へ運ぶことにした。
宗哲は三島にたのんで、追加の薬と医生(佐久間要)をよびよせた。
<滝久蔵を尾行/仕官の成功>・・・⑥陽岳寺
102)四谷の弥七と仙台堀の政吉が、連れ立って、●小兵衛の隠宅へあらわれたのは、次の日の昼すぎ。
103)仙台堀の政吉は、滝久蔵の近況について、報告に来たのであった。
⑥陽岳寺の和尚によると、滝久蔵が、ちかごろ、外へ出て行くのは、何処かへ仕官の口でもあったらしい。
豊次郎は三日前に、⑥陽岳寺から出て来た滝久蔵の尾行に成功した。
それによると、深川から本郷へ出た滝久蔵は、㉖神田明神社・門前の茶屋〔翁屋〕で、立派な身なりの侍と待ち合わせ、共に、㉗湯島明神社の西側にある㉘幕府の組屋敷へ入って行ったというのだ。
「そこは、㉘御公儀の御徒士の組屋敷なんでございます」
豊次郎は、さすがに何処の長屋へ入って行ったのか、突きとめるわけにはいかない。そこで、門の外で待っていると、半刻(一時間)ほどして、二人が出て来た。
豊次郎は、とっさに滝久蔵の連れの侍を尾行することにした。
侍は町駕籠を拾って湯島の切通しを東へ下り、⑲下谷・御徒町の、一角にある武家屋敷へ入って行った。
この屋敷は、⑲六百石の旗本・諏訪伝十郎のものであることを、豊次郎が突きとめるのに、わけはなかった。
いまは、万事が金の世の中である。
一種の猟官運動をしている滝久蔵にとって、相当の金が要ることはいうまでもない。
もしや、金が必要になった久蔵が、平松老人から金を借りたのではないか?だとして、返すあてがあるのだろうか。
(だが。いまさらわしが余計なことをせぬほうがよい)
そこまで考えたとき、小兵衛の肚は決まった。
106)「弥七。⑥陽岳寺のほうは、もう、見張らずともよい」
<重症を負った勘之助>石原町
顔色の悪さを心配した弥七に、昨夜の一件を語った。
小兵衛は勘之助の様子を見に行くつもりでいる。
108)勘之助は意識を取りもどしていた。
「佐久間さん、また夕方来てみますから、たのみましたよ」
小兵衛は、三島房五郎の妻女へ、用意の菓子箱と金包みをわたした。
<平松多四郎と滝久蔵>
109)小兵衛は、●山之宿〔駕籠駒〕へ行き、いつもの千造と留七に頼んで
「㉑本郷の春木町まで行ってくれ」
小兵衛は途中の菓子舗で土産の用意をして、またも、㉑平松多四郎宅へおもむいたのである
「あなたは、⑥深川の陽岳寺にいる滝久蔵という者をご存知かな?」
滝は二十両ほど借りていた。
111)借りていたことはわかったが、自分が何をしたらよいのか、小兵衛にはわからなかった。
何となく、気がぬけたかたちで、小兵衛は待たせておいた駕籠に乗り、⑰本所へ引き返した。
<重症を負った勘之助>続き=襲われた理由:石原町
⑰石原町の三島房五郎宅の手前で駕籠から出た秋山小兵衛は、心付けをわたしてひょいと三島家を見た。
112)⑰三島宅の前に立っていた三十前後の浪人が、しきりに門の内を窺っているのに気づいた。
「おい」
声をかけると、浪人は突き飛ばされたように、道の向う側の外出町細道へ駆け去った。
112)⑰三島宅では、ちょうど、小川宗哲が来ていて、佐久間要に手伝わせて手当てをしていた。
113)「昨夜のことについて、心あたりはあるのかな?」
勘之助は、はっきりと、うなずいて見せた。
「小兵衛さん。今のところは大丈夫じゃよ。わしも今後は、つきそっているつもりじゃ」
宗哲が、そういってくれたので、小兵衛は●隠宅へ帰ることにした。
外へ出ると、もう、とっぷりと暮れかかっていた。
⑰三島家のまえから、小兵衛は、㉕大川沿いの道へ出た。
114)小兵衛は迷った。門の内を窺っていた浪人のことを告げることも、はばかられる。
そのとき、ひたひたと背後から近づいてくる足音を聞いた。
振り向きかけた小兵衛に背後から声がかかった。
「もし・・・」
やりとり(殺気立つ一瞬も)あって、侍は立ち去った。
116)(こうなっては、捨ててもおけぬし・・・)
小兵衛は⑰三島房五郎宅へ引き返した。
116)もどって来た秋山小兵衛を見て一同、おどろいたようだが、小兵衛は小川宗哲のみを別間へよび、すべてを語った。
「私は今夜、此処へ泊ります。宗哲先生は、●お宅へお帰り下さい」
小兵衛は
「佐久間要さんを、ちょっとお借りしてもよろしゅうござるか?」
117)おはるへあてて短い手紙を書いた。
『今夜は帰れない、明朝、四谷の弥七へ連絡をつけておくれ』
小兵衛は佐久間要に、念を入れた。
「くれぐれも、後を尾けられぬように・・・」
118)小兵衛は、宗哲を家へ帰し、山崎勘之助の枕元へ座り込んだ。
119)翌朝、というよりも、昼近くなってから、おはるが、神谷新左衛門を案内してあらわれた。
「これは、これは・・・」
出迎えた小兵衛が、山崎勘之助について語ると、
「少々、耳に入ったことがあったのでやって来た」
●両国橋の東詰に、元禄のむかしからつづいている蕎麦屋〔原治〕という老舗がある。これへ神谷を案内し、入れ込みの奥の小座敷へ入った。
神谷新左衛門がいうには、大身旗本の生駒筑後守は若いころに、㉔巣鴨の佐々木勇造の許で、剣術の修行をしていたらしい。
「心をゆるした同門の剣友があったそうな。それが死んだので、いまは、その息子に肩入れをしているということを聞いた」
「佐々木勇造が死んだときに、道場でもめ事があって、その息子が同門の男を二人ほど斬って捨てたらしい。そのことによって、恨みを受け、いまは身を隠しているそうじゃ」
小兵衛が、山崎勘之助について、事細かに語った。
話が終った。
122)そこへ、三島宅へ残して来たおはるが顔を見せた。
「先生、四谷の弥七さんが見えました」
「こっちへ通せ」
<山崎勘之助は隠宅へ移る>
122)冬の足音が近寄って来た。
山崎勘之助の傷は、小川宗哲の治療によって
「もはや、何処へ身を移しても大丈夫じゃ」
ということになった。
「では、わしの●隠宅へ移しましょう」
123)●おはるを実家へ帰し、小兵衛は勘之助を●鐘ヶ淵の隠宅へ移した。
小川宗哲は日に一度、必ずやって来て治療してくれたし、四谷の弥七は、傘屋の徳次郎を常時、●隠宅へ詰めさせ、自分も、できる限り、足を運んで来る。
それでも、不安は解けず、杉原秀にたのみ、来てもらうことにした。
124)山崎勘之助も黙っているわけにはいかなかった。
あの夜の曲者どもの中には、もと㉔佐々木勇造の道場にいた者が二人まじっていた。
「佐々木先生亡き後に、門人の間で、もめ事がありました」(跡継ぎ)
125)木下求馬は、㉙麻布・長坂に屋敷をかまえる千二百石の旗本・木下主計の次男であった。
<事情:求馬に挑まれ決闘:場所は、㉚城北の高田の馬場。遺恨は持たぬとの誓約にかかわらず、求馬の父と兄は、遺恨をもって勘之助殺害を決意≻
128)小兵衛は、山崎勘之助に力強く言う!
「ともかくも、傷を早く癒してしまわぬといかぬ」
<平松伊太郎は滝久蔵へ取り立てに>
129)平松伊太郎は根津の岡場所〔越後屋〕にいた。妓の名はお篠。
130)「今日は、親父どののいいつけで、深川へまわらなくてはならぬ」
132)「今日はかんべんしてくれ、その代わり、明後日は必ず来るよ」
133)平松伊太郎は、⑥深川の陽岳寺へ向った。
この日、滝久蔵は⑥陽岳寺にいたが、借金は返さなかった。
平松伊太郎が、㉑本郷の家へ帰ったときは、もう、夜になっていた。
「滝殿がいうには、今年一杯はどうにもならぬそうです」
借金は二十両だが、いまは、元利合わせて、三十両を越えてしまっている。
「ですが父上。今月末には、半金ほど返すと申していました」
「今月の月末です。晦日です」
134)「滝殿は、近いうちに、幕府の御徒士に取り立てられ、本郷の、ほれ、この近くの組屋敷へ移るそうです」
<遺恨の果て>・・麻布・長坂の屋敷
136)八畳の部屋に仰向けに寝た六十前後にみえる病人。
「父上」
137)病人は、千二百石の旗本で、この屋敷の主・木下主計。病間へ入って来た侍は、長男の主膳である。
138)「ああ、先夜こそ、亡き求馬の敵を討つことができたものを・・・」
139)「父上。いま、先日、おはなしした伊丹又十郎という浪人が諸方を探っております。間もなく、すべてがわかりましょう」
139)「牛窪の槍と伊丹の剣がそろえば、きっと山崎勘之助の首を・・・」
140)廊下へ出て行った主膳は、すぐもどって来た。
「かの老人は、秋山小兵衛と申し、●鐘ヶ淵のあたりに住み暮らしているそうでございます」
<山崎勘之助・隠宅>・・・追手の影
140)ちょうどそのころ、●鐘ヶ淵の隠宅では、小兵衛が炬燵に、居間には山崎勘之助が寝ている。
おはるは、●関屋村の実家にもどっていて、三日に一度ほどやって来て、すぐに帰る。
このとき、杉原秀は、居間に面した縁側へ出ていた。
141)其処で、手足の爪を切っていたのである。
庭の一隅、そこから、堤への道がのぼっているあたりの木蔭に、ひっそりと、たたずんでいる者があった。袴・羽織をつけ、塗笠をかぶっている侍である。
一歩、木蔭から出て来た侍へ秀が鋏をなげつけた。
霜夜の雨
<追手の影、続き>
143)杉原秀の右手は、左の袂へ入り、〔蹄〕をつかんだ。
「何者じゃ?」
秀が、片膝を立てた。
微かに笑った侍が、さらに後退し、木蔭へ隠れた。小兵衛が起きてきた。
「あの男は、わしと同じ無外流を遣う伊丹又十郎という男じゃ」
<滝久蔵>
148)同じころ、⑥深川の陽岳寺にいる滝久蔵を、平松多四郎が訪れていた。
「今日は、元利とも、金三十両をお返し下さると、先日、せがれが申しておりましたが・・・」
150)<滝は利子3両だけ返し、証文の書き換えに成功する>
<追手の影・小兵衛の対応>
151)翌々日、11月28日の朝に、おはるが●鐘ヶ淵の隠宅にあらわれた。
152)昼すぎには、小川宗哲が●〔駕籠駒〕の駕籠に乗って、治療に来た。
153)●隠宅を出て堤の道をあがって行く宗哲を、秀が見送りに出た。
154)●隠宅の庭の闇の中に、ひっそりと一つ二つ、人影が動き出した。
山崎勘之助は支えられて小舟へ乗れたようだ。
156)舟は橋場にある●船宿〔鯉屋〕へ。駕籠が待っていて、闇の中から千造が飛び出して来、小兵衛と二人で勘之助を駕籠へ乗せた。
小兵衛はつきそって歩みつつ
「おはる、先へ帰っていろ。万事に気をつけるように」
157)小兵衛は、思ったより早く帰って来た
「下谷・御徒町の、生駒筑後守様の屋敷へ送りとどけてきた」
小兵衛は杉原秀に目を移し、
「伊丹又十郎のことを勘之助殿にはなすと、木下父子に雇われているようにおもえますと、こういうのじゃ」
158)「なれど、あくまでも、勘之助殿が此処にいることにしなくてはならぬ」
<麻布・鳥居下>
159)翌二十九日の昼すぎになって、麻布の鳥居下にある料理屋〔一文字屋万七〕方へ、木下主膳があらわれた。
「伊丹殿は来ているか?」(密談)
<釣りの人>
162)つぎの三十日は、朝から雨がふりけむっていた。●おはるは関屋村へ、秀は用心して庭を見やった。男がいた。
「そこなお人、何用ですか」
・・・男は、縁側まで身を寄せて来てささやくように
「てまえは、生駒筑後守の家人でございます」
164)「彦坂与助と申します」
彦坂は礼をのべ、お指図をいただくよう言われて来た・・と言った。
「さよう。しばらくは、山崎勘之助を外へ出さず、お匿いくださるよう、お願いいたす」
「心得てございます」
166)なにか語り合っていたが、
「こうしたことは、いずれにせよ、間もなく決着することでござる」
167)彦坂与助が帰って行くと、
「ちょっと、見てまいります」
杉原秀が、庭へ降り立ち、其処にあった番傘を手に取った。
桜の木蔭から三人の浪人。
168)「女、秋山宅のものか」
「斬れ、斬ってしまえ」
〔蹄〕が飛んだ。
169)「こうなると、こちらも人手を増やさねばならぬな」
170)秀の姿が浅草の方へ遠ざかるのを小兵衛は見送っている。
170)12月1日の昼近くなってから、平松多四郎は、滝久蔵を訪ねた。
171)「お約束によって参上いたしました」
他人事のように、久蔵がいう。
「何ぞ、約束をしましたかな」
174)翌日、平松多四郎は、このことを町奉行所へ訴え出た。
町奉行所では、相手が御徒士(おかち)の者と知るや、さらに上へうかがいをたてて
「明日にも追って沙汰をいたす」
という。
翌朝、呼び出しがあった。
175)伊太郎は「親父の勝だ」と女中のお元に行って、自分は牛蒡女のお篠に会いに行った。
176)二日おいて、評定所から呼び出しがかかった。
伊太郎が父を送り出した、ちょうどそのころ。
麻布・鳥居坂の料理屋・一文字屋の、庭の奥の離れに、木下主膳と伊丹又十郎が会っている。
「困りますな。浪人共が三人、●秋山宅へ押しかけたというではありませんか」
177)「そうなのだ」
178)今日の伊丹又十郎には、何か居丈高なところがあり、主膳は圧倒されているようだ。
「山崎を槍で刺した男が・・・」
「その男ひとりで、よろしい。明日の昼前、此処へ呼んでいただきたい」
「このことは、内密に・・・」
主膳は不機嫌のまま立ちあがった。
178)評定所における相対吟味・・・
182)ここでようやく、多四郎は久蔵のたくらみに気づいたが、すでに遅い。
184)伊太郎はお元よりも深い不安をおぼえた。
<伊丹又十郎・襲撃>
そのころ・・・。
185)伊丹又十郎は、槍を遣うあの浪人と一文字屋の離れで、酒をのんでいる。
槍の浪人の名を牛窪為八という。
小兵衛の家の図面を間に相談。
「明日、押込もう」
首
<伊丹又十郎・襲撃・始末>
188)<●隠宅>翌々日の朝・・・といっても、まだ辺りは暗かった。
前夜おそく、鳥居坂の〔一文字屋〕の離れで落ち合った二人の浪人。
山崎勘之助の代わりに待っていたのは、大治郎であった。
この襲撃で牛窪は命を落とす。
<平松伊太郎の決心>
194)その日も、平松伊太郎は、根津の〔越後屋〕で、お篠と遊んでいた。
196)根津をでて、宮永町から茅町へ。
197)そのころ、評定所では、死罪に処すという評決が下ったのである。
明日は多四郎が、死刑になるという前日、伊太郎との面会がゆるされた。
198)翌日、多四郎は首を切られた。
198)このことを、伊太郎が、●鐘ヶ淵の隠宅へ秋山小兵衛を訪ねて語ったのは、三日後になってからだ。
199)打首にされ、その首は、小塚原の刑場にさらしものとなっているそうな。
200)「父の首を奪い取ってまいります」
「明日の夜、行くとしようか。昼のうち、多四郎殿の首が何処にあるか見とどけて来てもらいたい。わしはその前に用事をすませておきたいのじゃ」
201)翌日の昼すぎに、本郷五丁目の〔瓢箪屋〕へふらりと秋山小兵衛があらわれた。
「春木町に御公儀の御徒士の組屋敷がある、その長屋に小村久蔵という人」
手紙をたのんだ。
202)手紙には
「本郷五丁目の瓢箪屋にて待つ。陽岳寺和尚」
203)滝が来た。
204)「こ、これは、秋山先生・・・」
「お前は、口先ひとつで、このわしの恩人を殺したそうだな」
「えっ、ま・まさか、そのような・・・」
205)「その人の名は、平松多四郎という」
「わしはな、その平松多四郎の助太刀をするやも知れぬ」
207)「いま来た客が、気持ちを悪くして倒れている・・・すぐ帰るだろう」
勘定をして、小兵衛は風のように、瓢箪屋を出て行った。
207)その夜、空に雲が出て来た。
秋山小兵衛は、●橋場の船宿・鯉屋で、平松伊太郎と落ち合った。ときに五ツ(午後8:00)。
四ツ半(午後11時)ごろまで、二人は●鯉屋の奥座敷にいた。
<多四郎のことを語り聞かせた>
208)●橋場から西北の方へ、二人は歩み出た。(これから行くコース)山谷・浅草町・・小塚原の刑場は、浅草町の近くにあった。
211)畑道から、山谷・浅草町の通りへ出ると、彼方の小塚原の刑場に高張提灯が、いくつか、夜空に突き立っているのが見えた。
212)伊太郎は、刑場の柵を越え、昼間のうちに見当をつけておいた、父のさらし首へ近寄って行った。
212)突如、龕灯の光とともに、番人が走り寄る・・・小兵衛の当身・・・
213)伊太郎は父の首を奪い取り、
伊太郎は先程、通って来た畑道へ入り・・・小兵衛と合流
214)平松伊太郎は、父・多四郎の首を、市ヶ谷の道林寺という寺へ運んだ。
「この事を、秋山先生に打ちあけ、ご意見を、よくよく、うかがってまいることじゃ」
といったのは、和尚であった。
216)こうして、伊太郎は、江戸の地をはなれて行った。
<伊丹又十郎の影>
218)四谷の弥七と傘屋の徳次郎が探り出したところによると、
伊丹又十郎は駒込・片町の吉祥寺裏の、元は植木屋だった小さな家
220)天明4年(1784)も暮れようとしている。
221)年もいよいよ押し詰った12月30日の午後になって、四谷の弥七は、女房が経営している●料理屋〔武蔵屋〕の板前が、念入りにこしらえた御料理を重箱へ詰めさせ、これを傘徳に持たせ、隠宅へ行った。
●両国橋をわたって
222)いましも橋をわたって来る二人の浪人。一人は〔伊丹又十郎〕
「お前ひとりで、大丈夫なら、後をつけろ。おれは大先生のところで待っている」
223)一刻(2時間)ほど語り合っていると、徳次郎が
「あれから二人は、●亀沢町の方へ行きました」
小兵衛の顔色がわずかに変った。●亀沢町には、町医者の小川宗哲が住んでいる。
二人の浪人は、●小川宗哲の家の前と裏手をそれとなく見廻ってから、両国橋の東詰へ引き返し、有名な蕎麦屋の〔原治〕へ入った。浪人たちは座敷へ。
徳次郎は、入れ込みの一隅
しばらくすると、表から、三人の浪人が入って来て伊丹が入った座敷へ案内。
まもなく伊丹だけが出て来て
「おぬしたちは、ゆっくり、やってくれ」
そういって、外へ出て行った。
224)傘徳が、すぐに、その後から出て見ると、ゆっくり●両国橋を浅草の方へ。
「又十郎は駒込へ帰ったとおもいまして、取り敢えずこちらへ駆けつけました」
224)「ふむ。ともかく宗哲先生から、目を離さぬことじゃな」
「本所には、親しくしている御用聞きが何人もおりますから、すぐ声をかけましょう」
と、弥七。
225)弥七と傘徳があわただしく出て行った。
霞の剣
<1785年>
227)新しい年、天明5年(1785)が来た。
秋山小兵衛67歳、おはる27歳、大治郎32歳、三冬27歳、小太郎4歳。
<無頼浪人の影>
無頼浪人どもは、依然、●本所の小川宗哲宅周辺に出没しているらしい。しかし、四谷の弥七のほうでも、油断なく見張っていた。
本所の緑町三丁目には、金五郎という御用聞き
「いいとも。おれにまかせておきなせえ」
228)ちかごろの又十郎は、船宿の舟をつかい、大川へ出て、●鐘ヶ淵のあたりまでやって来るという。
229)「弥七。又十郎は駒込に住んでいるといったが、その辺りの様子を、ひとつ、お前の目で見て来てくれぬか?」
<小兵衛の財布>
新年ともなれば、●隠宅へ、つぎつぎに人があらわれる。
230)その中に、〔駿河屋八兵衛〕もいた。外神田の佐久間町で人宿〔口入屋〕をやっている。
駿河屋八兵衛は、秋山小兵衛の剣の弟子でもあった。
いまは本業のほかに、一種の仕法家のようなこともするようになっている。
231)小兵衛は、浅野幸右衛門という金貸しから、千五百余両を遺されており、人助けのためにつかうことにした。三百両ほどつかったとき、残り千二百両を駿河屋八兵衛へ預けることにした。現在では、千五百両を越え、利益の金を小兵衛へ置いていくのである。
「あの金は、決して、私(わたくし)すべきものではない。お前は、わしがどのようにつかっているか、よく心得ているはずゆえ、わしが急死したら、うまく世の中に生かしてつかっておくれ、おはるに残してはならぬ」
232)一月も、わずかの日を残すばかりとなった。
ある日。四谷の弥七が来て、旗本・木下主計の病死を告げた。
それとは別に、老中・田沼意次が河内・三河を合わせて、五万七千石の加増になったことを、小兵衛は知った。・・・悪い予感
<終わりの始まり>
234)その翌日から、秋山小兵衛は、●大治郎の家へ身を移した。
「大治郎にすこし稽古をつけてもらおうとおもってな」
235)●大治郎宅へ身を移してから三日目の夜も更けてから、四谷の弥七が駆けつけて来た。
236)「大先生。●小川宗哲先生が急に消えてしまいましてございます」
万全の警護のさなか・・・ふらりと外へ出て行ったきり帰って来ない。
夜になって、心配した医生の佐久間要が金五郎へ知らせたので、大さわぎとなった。
237)「いま、徳次郎を駒込へ走らせて、又十郎一味を探らせております」
「よし、わしが行こう」
「父上、私がお供いたします」
239)「大先生、お迎えにまいりました」
駕籠舁き千造の声がした。●道場の前に駕籠が二挺。
二人を乗せた駕籠は、大川沿いの道へ向った。
239)秋山父子を乗せた駕籠は、上野へ出て、湯島の切通しを上り、本郷通りを北へすすむ。
二挺の駕籠につきそっているのは、四谷の弥七ひとりきりであった。
240)小兵衛は、駒込の肴町辺りまで来ると、声をかけて駕籠を降り、駕籠は返した。
「弥七。たのむぞ」(弥七の案内で闇の中へ)
吉祥寺は、まだ少し先であるが、その手前の駒込・片町の辺りで細い道を右へ曲った。
曲りくねった道は突き当って、左右にわかれる。弥七は左へ。
なるほど、この一帯には植木屋が多い。
道の両側は竹藪と木立ばかりで、その間にわら屋根の植木屋がある。
241)徳次郎があらわれた。
道は吉祥寺の裏手へ、さしかかってきている。朝日がさして来た。
道の左側に、畑がひろがってきた。
畑の中の雑木林の中に、わら屋根の家が一つある。
242-247)「火事だ、火事だあ」~宗哲救出まで
<後日談>
247)山崎勘之助は生駒の家来になった。これが、この夏のこと。
秋には又六と秀が夫婦になった。
・・・世情の動き/本作・浮沈の背景に田沼意次の栄華と没落
250)伊太郎は、江戸を去ってから一年目にふらりともどって来て、小兵衛の隠宅へあらわれた。
251)「上州の山の中に、小さな宿がありまして、凝っとしておりました」
252)小兵衛かねて用意の金五十両をわたした。伊太郎は泣き崩れた。
それから、三月に一度ほど隠宅へ顔を見せていたが、一年後に五十両を返してよこした。
253)「おお、百両余りもあるではないか」
「今日は、お別れにまいったのでございます」
金貸しは表裏がわかって、飽きた、といい、江戸を去って行った。
254)そして、七、八年たった寛政五年(1793)夏に隠宅へあらわれた。
「これは、私の家内で、八重と申します」
このとき、秋山小兵衛は、75歳になっていた。
「伊太さんは、いま、京へお住まいかえ?」
「はい。いまの手前は、京の寺町四条下ルところの筆問屋・中村屋忠兵衛と申します」
でっぷりと肥えた妻のお八重。
「伊太さんが、心ひかれたのは筆ではあるまい。そこの、お八重さんじゃな」