相田先生
化学室は、いつも清潔で冷たくて静かだった。
それは実験することと関係があった。
先生のお姉さんは実験中の爆発で片目が不自由になってしまったそうだ。それでも製薬会社で研究を続けているという。お姉さんは私大の出身で、希望の製薬会社に就職した。未来を嘱望されていた。それなのに事故。
先生は、生徒たちが、化学室でふざけることもおしゃべり(私語)さえも許さなかった。
化学室は酸の匂いがした。それとも、消毒の匂いか?
掃除当番で化学室の担当になることがあった。窓からヒマラヤスギが見えて、その後ろに裏門に続く商店街が見えた。先生は様子を見に来ることはなかったが、私たちはさぼることなど、思いつかなかった。化学室だけは。
化学室は私語もおふざけもタブーだったし、いつも清潔で冷たくて静かだった。
だけど。
だけど、準備室は違った。生徒たちが入り浸った。もちろん、質問とか、訪問理由が終わったら追い出されてしまったけど。
いつもコーヒーのいい香りがしていた。いやいや、いい香り、とは思っていたが、それがコーヒーという名前のものだということを知らなかった。田舎の子だったのだ。同級生にはカフェ(当時は喫茶店、サテン、といっていた)に入り浸っていた子等もいたが、私は喫茶店の存在も知らなかった。興味がないとはそういうことだ。逆に先生はそういう子がいることを知らなかったと思う。無邪気に取り巻いて、背伸びして知ったかぶっていたにしろ、小学生から一ミリも成長していなかった、今ならその自負がある。
いつも白衣の先生から、都会が匂った。
昔のことで、コーヒーを淹れるための専門の器具は売っていなかった。売っていたとしても専門店、高価で無駄だった。先生はネルドリップを偏愛していて、その、ネルの袋(?)だけは本格的なものだったが、コーヒーカップへ落とすのには実験に使うビーカー用の三脚とかを工夫して使っていたのが何ともおしゃれだった。
「先生、ビーカーで飲んだら、もっとおしゃれだ」
と真剣に言ったら、ひどく怒られた。間違ってもそういう使い方をしたらダメと言われ、同じガラスなのにと思ったものだ。けれど、後で理系の人が、万一薬品が残っていたり、逆に、汚染されたものを実験に使ったりしたら事故になる、絶対に行き来させちゃダメ、というのを言っていて、腑に落ちた。
そのころの相田先生に対する印象は、ベテランの先生で・・・近寄りがたいほどのオーラだった。この、オーラ、という単語も当時は知らなかったのだが。
ちなみに、先生は浦和から車通勤だった。当時は知らなかったのだが、後から考えるとそういうことだ。多分、拒食症で満員電車はダメだった。
先生はネルドリップのネルの袋を洗って窓際に目立たないように幾つも干していた。古文の先生はコーヒー目当てに時々姿を現した。
それから・・・先生はシリカゲルを集めていた。
どうしてこんな些細なことを覚えているのか?我ながら不思議だ。
私は相田先生について、夏目漱石の「坊ちゃん」の、主役の坊ちゃんみたいに感じていた。無鉄砲で生徒第一で。違いは、相田先生は教えるのが上手だったこと。それと、風呂で泳ぐようなことはしない。多分。
それと。
マドンナではない、そう、絶対マドンナじゃない。