2024/10/19「シンメトリー」

今日のテーマは「シンメトリー」。日本語で言うと「左右対称」ということだが、なぜ人はこうもシンメトリーが好きなのだろう。僕も好きだ。シンメトリーのあの落ち着く感覚。
おそらく、ある種の美的感覚なのだと思う。美学とかやってる人ならもうすこり理論的に説明できるのだろうが、今の自分にはいまいち理論的なことは説明できそうにない。

シンメトリーを美しく感じるのはなぜだろうか。それはある種のイデアというか、理想的な状態だからなのだと思う。現実世界において、完全に左右対称な物体というものは(意図的に作り出さない限りは)存在しないのだと思う。人間の肉体も、自然のありようも、動物の動きも、なんであれ左右対称な自然物は存在しないように思う。
左右対称を美しいと感じるのは、現実的にはおよそあり得ないからこその理想像としての役割を果たしているのではないだろうか。それではなぜ左右対称が理想像としての役割を果たし得るのか。それは「中庸」、より平易な言葉を使えば「バランス」という価値観が極限まで実現されているからに他ならない。
古代より重んじられてきた「中庸」という価値観だが、これは人間の成り立ちというか、立ち位置と関連があると思う。神と獣の中間者であったり、理性的な存在者と感性的な存在者の中間者であったり、善と悪の中間者であったり、人間という存在をある種の「中間者」として捉える考え方は特段珍しいものではないと思う。
「中間者」たる人間にとって、シンメトリーという究極の「中庸」に対し、理想像としての地位を与えることは、そう不自然なことではないような気がする。

とはいえ一方で、シンメトリーというのは、自らの「中庸」という性質を突き詰めすぎているがゆえに、「究極」という「中庸」から最も離れた形容詞でもって語られてしまうのではなかろうか。片側に大きく偏ったものを見て「醜い」と感じるのと同じように、「中心」「中庸」「バランス」を突き詰めたシンメトリーは、ある意味では最もいびつなありようだ。シンメトリーは「究極の中庸」であるがゆえに、「偏り」というものの対極に位置してしまっている。すなわち、シンメトリーは自身がもつ性質ゆえに、真の意味で「中間」たりうることはできないのだ。

人がシンメトリーではないものに美しさを感じるのも、こういったところが関係しているように思う。シンメトリーではないはずの荘厳な自然の風景を眺めて、なぜ美しいと感じるのだろうか。あまりにも左右対称に描かれた人の顔に対して、どこか不気味さを感じてしまうのはなぜだろうか。
結局人間には、シンメトリーを美しいと感じる美的感性だけでなく、アシンメトリーを美しく感じる美的感性も持ち合わせているのだろう。
真の意味で「中庸」たりうるのは、「究極」たるシンメトリーではなく、シンメトリーとアシンメトリーという相反する2つの性質に対して、共に美的感情を持ちうる人間という存在なのだ。

ちなみに、哲学で大学院まで出ているので、こうした話はかなり好きというか、得意とするところだったりする。以下日記。
8時起床。一日予定なく、PCに向かって過ごす。夜は回転寿司で日本酒。したたかに酔っぱらってnoteを書く。アイス食べて寝る。明日は軽く買い物に行く予定。

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