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#5 多すぎる時計と看板
最近では携帯電話の普及で、そうでもないかも知れないが、日本の駅や空港で不自由しなかったのが時計だった。
時計を持っていなくても、だいたい見渡せばどこかに時計があり、時間を認識することができた。
ところが当時アメリカで勤務していた時に、空港で時間を確認しようとしても、なかなか公共の時計たるものがないのだ。
「なんでこうも時計がないのか!?そもそもみんな困らないのか!?」
と一人憤っていた記憶がある。
これは時計だけに限ったことではない。
看板や表示もそうだ。
日本ではやたらと看板や表示が多い。
特に注意喚起の表示となったら、日本のお家芸だ。
「ここではこうしてはいけない。」
「危ないから、ここには手を触れるな。」
「小便はもう一歩前に踏み込んでヤレ!」
など、非常に親切である。
日本にいるとわからないかも知れないが、海外、特に欧米圏では駅や空港は非常にシンプルである。
シンプルすぎて行き先がわからなくなる時もあるほどだ。
間違っても人の小便の仕方まで指示する表示など皆無である。
日本人が海外に行ってまず持って面食らうのはここだ。
そして憤る。
「なぜこんなにも不親切なのだ!」と。
「もっと僕のしょんべんの仕方を指導してくれっ!」と。
この違いはいったい何処から来るのであろうか?
これは私なりの個人的な推測であるが、
「全体主義」と「個人主義」の違いではなかろうかと思う。
全体主義である日本では、すべての人をある方向に導きたい。
ある方向以外は、社会的に受け入れ難いのである。
皆が同じような考えに基づいて、同じように行動することを強く求められる。
そして根深いのが、それをほとんどの人が望んでいることである。
過剰な注意喚起や看板がその結果である。
日本という国は憲法で「個人の自由」が保障されている。
そういう意味では「個人主義」の国だ。
しかし実情はそうではない。
頭では個人主義をわかっているつもりでいても、身体がそう動かない。
おそらく顕在意識には個人主義が堂々と居座ってはいるのだが、
潜在意識には全体主義がごうごうと渦を巻いてうねっている。
海外、特に欧米では本当の意味での個人主義が根付いている。
それはこれまでの歴史の中で、彼らが彼らの血を流して勝ち取って来たもので、
おそらく、そのような個人主義の大切さや重要さを学校もしくは、なんらかの形で学ぶのだと思う。
翻って日本は、個人主義というものを勝ち取った感はなく、学ぶ機会も無い。
もちろん学校で憲法上の、形だけの個人主義や自由主義の話を授業で「聞く」ことはある。
だが、それらの本質や考え方、それを踏まえた生き方などを教えてもらうことはない。
加えて小さい頃から親や社会から教えてもらうことは、全体主義的なことがほとんどだ。
「あれをしてはいけない、これをしてはいけない。」
「人に迷惑をかけてはいけない。」
「我慢することは美徳で、石の上にも3年。とにかく歯を食いしばって頑張れ。」
「自分を犠牲にしても、皆のため、組織のために働くことが素晴らしいこと。」
そしてこれらの逆は全て「自分勝手」「利己主義」と非難される。
知らない間に見ているテレビでさえもそうだ。
全体主義的な啓蒙が、あちらこちらに散りばめられている。
そして我々日本人は、知らない間に洗脳されているように思う。
こういったことで、
潜在的に本質的には日本は全体主義国家である。
以前私の妻に、「日本は社会主義国家みたい」と言われたことがある。
私の妻は韓国籍であるが、韓国人から見てもそう映る部分が生活の中にあるということだ。
欧米では「自分自身で考えなさい。」であるが、日本では
「自分自身で考えず、皆の意見に従いなさい。」ということである。
看板や表示の多さからの自分なりの考察であるが、この全体主義の考え方は、日本人の他の多くの事象に関係している。
日本人サラリーマンである私も感じるが、まるで頭だけは地上に出てるが、体は地面の中に埋められて自由が効かない状況だ。
なんとかしてこの状況を改善できないものか?
いや待て、改善を望んでいる人たちは多くいるのだろうか?
それでは、また次回。