「伽羅の薫」はさておき 後期も行きたいほぼ成園さん
ということで、改めてこちらの感想をば。
紹介動画 https://www.youtube.com/watch?v=UN0Pel9Fr7w
わたくし最初この額縁に入ったような半身像の美人画が成園さんとは思っていなかったのでした。
会場にてあらっ、下半身もあったのねと。
そして連想したのは鏑木清方の「一葉女史の墓」
展示室に入るとまず一番最初に目の前に現れたのは
2020年に高石の小林美術館「三都三園」展で初めて存在を知った
「まつりの装い」
横長大画面に女の子たちがカワイイ~。
おすまししたり可愛いのよ感を押し出すのではなく
それぞれ力の抜けた自然体でだら~ん、ぶら~ん。
丸みを帯びて両端がピンと立ち上がった肩揚げや頭からはみ出すした大きすぎるリボンが愛らしく、
乳母日傘に御蚕ぐるみを地で行くようなふんわりとやわらかに
晴れ着に身を包まれてのちょっと休憩。
というか少々気怠い表情の左のいとさんからは「うちもう飽きた~」との声がきこえてきそうな。
前回観たときは子供たちの顔や身体の表情に流石だーと身悶えしそうな感動を覚えたものですが、
その後子供の世界にも存在する階級格差社会へのメッセージ性を込めて描かれていたと知ることに。
えっ、そうなの?そんなことないでしょ?
右端のシンプルな恰好の子だって普段着だろうけど髪飾りをつけてるし、
つぎあてもなく、決してみずぼらしいわけではないし。
この子もカワイイじゃない~。
大体自分が羨ましかったり引け目を感じる場所になんて
余計惨めに思えるから寄りつこうとはしないのでは?と思っていたのですが、
今回の解説でもそういうことのようで。
昔って突出した御大尽や旦那衆のおうちが僅かな割合で存在し、
少しばかりの使用人のいる中産階級も含め、その日暮らしの貧困層まで
人口の大方をいわゆる庶民、大衆、市井の人が占め、
あああそこは別世界だからと比較の対象にもならなかったようなイメージがあるのですが。
右端の子は花嫁さんでもみるような感覚で
お祭りの晴れ着を綺麗だなぁ、もっと近くでみたいなぁと寄っていったということなのでしょうか。
女の子の手は体の後ろで団扇を持ってるけど頭や後ろ姿の頭や首の具合からは
指をくわえている時のようなもの欲しそうな表情が感じとれなくもありません。
でももし羨ましいと思う気持ちだったなら、
わたくしの場合家に帰って悔しいとか私も着たいとか買って欲しいとか
親に泣きついていたような気がw
手が届かなさすぎる羨ましいとも思う対象にすらならない壁が大前提として当たり前にあって
普通に衣食住が整っていれば大して惨めとも思わずにいるような気がしてた、いや、そうであって欲しい、せめて年少ゆえの無邪気さでまだ気づかないでいて欲しいと願ってたのですが。
着る物の格や素材は違っていても、盛り盛りさんもオシャレに無頓着な子も
自然に集って喋っている祭りの日の一コマであることを願ったわたくしでした。
一方その隣には縦長の「おんな(黒髪の誇り)」
能面が染められた着物を纏い長い髪を梳く女の図。
ちょっとコワい。
成園さん特有の黒目がちの暈しの入った目がとても可愛らしく幼子たちの絵からの変遷は
師匠の北野恒富の後追いをしてるかのようで「道行」の色調を連想。
振り向いてガラスケース内を順にみていくと、
「紅葉二美人」では清方を思わせる明治調の描写で
ううっ、これもお好きだ~。
「灯籠流し」は第10回文展落選を惜しんだ清方が「落選すべきものとは思われない」と擁護した二曲一双。
清方が好みそうな題材。
左端の尼さんの表情に特に関心が。
(今ちょっと検索してみたら「美人画征伐」と呼ばれた大阪・悪魔派(放蕩・デカダンの中に題材を得るみたいな一派)画壇ほぼ落選の回だったとのこと。恒富へ反発する京都画壇の思惑からとか)
気に入った絵のうち絵葉書で売られていたもの。
「囃子」は下地の青が肌色にうっすらと影響して透き通ったような美しさがあり、
絵葉書では切れているけれど舞妓の頭上には桜の造花の飾りがいくつも垂れ、
簪には雪洞がいくつもついていて、まんま春の宵らしくてステキ。
「西鶴のおまん」は衆道の僧を慕い訪ねる男装の娘。
話のあらすじを知ると情熱的で活発な少女の印象だけど、
この絵では目元がぞくっとするほど色っぽい…!
嵐山の福田美術館で観た「美人のすべて」展での山川秀峰「振袖物語」と双璧をなす?!
冒頭の「一葉女史の墓」を思い出させる雰囲気の「桜花美人」、
好き好き~。
絵葉書の販売がなく残念だったけど
「西洋骨牌(トランプ)」はトランプの札を背景にしたアール・デコの女性の表紙絵。
耳隠しに着物姿のモダンな和洋折衷の小粋な意匠で、黒が良く効いて現代でもそのまんま使えそうな。
「春の愁い」は満開の桜の下殉教した切支丹の遊女朝妻を描いたもの。
同じテーマで描かれた松本華羊「殉教(伴天連お春)」の展示もあり、
手鎖で筵に座し桜を見上げる様は鉄板の題材で、どちらが好きかとか選べない~。
成園さんだけでなく今回の展示ではちらほらと清方の影響や雰囲気を感じられる画が。
顕著なのが吉岡美枝の「樋口一葉」
色も構図もやってることも違うのだけど凛とした佇まいなんかが
一見して一葉!という印象。
「をんごく」はじめ他にも気になったりお好みの絵はあったものの
やっぱりメインは成園さんで、
所々で本人の写真や自身を描いたといわれている「無題」や「自画像」を見ることに。
伝わってくるのは持て余さんばかりのほとばしる情熱、烈しさや意思の強さ。
古典に題材を求める古風な日本画家というイメージとは異なり
あ、こんなタイプの顔つきの芸能人見たことあるようなという現代女性にも見受けられそうな容貌。
特に「自画像」からは先端を行くデザインや作詞、歌唱を兼ねる
主張する尖った女性アーティストのような印象も。
恒富師匠に関する解説が少なく女性画家との関わりを中心としていたのが
いつもとは異なる点だったでしょうか。
「三都三園」のなかでは
松園が陶磁のお人形のような尊く美しい女性のイメージなのに対し
蕉園は大和絵的なぽわんとした温かみのあるお嬢さん、
成園はぽわん系も多いものの時には仇っぽかったり挑戦的だったり。
今回の展示で特性が一層クローズアップされたような。
絵画の…というより、存在した生身の女性としての個性、リアル感が強く伝わり、
成園さんに少し近づけたような気がしたのでした。