占いエンタメシリーズ① 木内昇 短編集 『占(うら)』
占いに頼る女と占う女 普遍的な心理を的確に描いた傑作
若い頃からの占い好きで、今や占い師を名乗る身でもあるので、占いや占い師の出てくる小説、ドラマ、映画、舞台を見ると、つい注目してしまいます。そこで、2月から占い師の登場する小説、ドラマ、映画をご紹介する「占いエンタメシリーズ」の連載をスタートしたいと思います。
第1回は木内昇さんの短編集『占(うら)』(新潮社)です。個人的には占う側と占われる側の心理を的確に描いた傑作だと高く評価しています。
帯には心理占星術家として有名な鏡リュウジ先生の「これは凄い。やばい。逆に占いの奥底を占われてしまった!」という一文が掲載されています。読んでいただければ、この推薦文が決してオーバーでないことがおわかりいただけるはずうです。
小説の舞台は大正から昭和にかけての日本。大正デモクラシーの風が吹き、「職業婦人」などという言葉が登場する一方、まだ女は娘・妻・母として男に頼っていきるのが当たり前だった時代です。ですが、7つの短編に登場する女性たちの多くは、手に職を持って自立していたり、カフェーで働いて生計を立てていたり、あるいは良家に生まれても結婚以外の生きる術を模索しているような先進的な女性たちです。そうした女性たちが占いに関わっていく経緯が語られているから面白いのです。
男の気持ちをはかりかね、占いジプシーになった翻訳家の女
特に秀逸だと思ったのが、最初の短編「時追町の卜い家(ときおいちょうのうらないや)」と二番目の「山伏村の千里眼(やまぶしむらのせんりがん)」です。「時追町の卜い家」の主人公は桐子(とうこ)は三十過ぎの翻訳家で独身。両親は他界しましたが、実家で経済的に自立しながら一人暮らしを楽しんでいましたが、ひょんなことから大工の伊助と深い仲になります。ですが、伊助は遊郭に売られた妹の梅を探しており、半玉になった梅が見つかったあとは身請けして一緒に暮らすことで頭がいっぱいです。「命より大切」なのは妹の梅であって、桐子ではないのです。
好きになった男は「一緒にいても寂しい男」で、自分に甘えてくるが、本当の意味で愛してはくれない。嫌気がさした桐子は「もうここには来ないで」と伊助に言ってしまいます。どうせまた訪ねてくるだろうと軽い気持ちで口にしたのですが、五日たっても一〇日経っても伊助は現れません。桐子は不安におそわれ、時追町の卜い家を三日とあけずに訪れて、様々な八卦見にみてもらいます。つまり占いジプシーになってしまうのです。
占い助言にすぎず、何を信じ、どう行動するかは自分次第
仕事にも身が入らず、莫大なお金を占いに投入するのですが、伊助が戻る時期も桐子がとるべき態度も人によって言うことがまったく違い、桐子を混乱させます。溜まりかねた桐子は「受付の女」に「何を信じたらよいかわからない」と苦情を言うのですが、それに対して女は次のように答えるのです。
「どの鑑定を信ずるか、それはあなたのお心次第になる、ということです」
「もちろん、どのお悩みも辿り着く結末はひとつに違いありません」
「けれどもそれが唯一の真実か、というと必ずしもそうともいえないのです」
「真実というのは本来、ひとりの人に対して、幾通りも用意されているはずなのです。例えば男女が添い遂げるのも、また、別れてそれぞれの道を歩むのも、どちらもその方にあらかじめ用意されている真実です。八卦見は、あまたある真実の尾っぽを捕まえることを役目としております」
つまり、占いは助言に過ぎず、何を信じ、どう行動するかは自分次第で、そうして選んだ行いの先にただひとつの真実が待っているというのだ。
結局、桐子は親しい叔母の「似合った人生をちゃんと歩んでいるあんたを誇りに思う」という言葉で我に返り、元の生活を取り戻します。そしてふた月後、桐子の好きなわらび餅を持って、伊助は再び戻ってくるのです。
自立している女性でも恋はします。たとえそれが自分と釣り合わぬ思いの通じない男で、煩わしさや懊悩を運んで来る相手だとしても、惚れた弱みで断ち切る勇気はないのです。そこに人の弱さがあり、愛おしさがあります。
心が弱ったとき、何か救いになることを言って欲しくて、占いに頼り、ジプシーになってしまう人は少なくありません。それはそれで、その時期、その人には占いが必要なのです。ですが、やがて日常を取り戻したり、新たな自分に出会ったとき、自然と占いから卒業していくものです。
相談者は真実を知りたいのではなく、望む答えを聞きたいだけ
「時追町の卜い家」が占ってもらう女の話なら、「山伏村の千里眼」は期せずして占う側に回る女性の話です。主人公の仙子(そまこ)は山伏村という山奥に育った二十歳そこそこの女性で、大叔母の家に身を寄せながら、カフェーのレジ係として働いています。
都会に出て華やかな場に身を置くことを長年夢見てカフェーの女給に応募したのですが、顔立ちが地味で存在感のない仙子は「ここにいるのにどこにもいないような風情」を買われてレジ係として採用されました。レジに美人がいるとお客が長居をして回転率が悪くなるためです。
大叔母は顔が広く、家には様々な女性たちが相談に訪れていましが。ある日、疲れた大叔母が仙子にある女性の相談を任せ、仙子適当に言ったことが当たっていたのをきっかけに、仙子を「先生」と呼び、相談にくる女性が次々と訪れるようになります。そして仙子はカフェーで働く暇さえなくなり、本意でないながら、「山伏村の千里眼」と称して、占い師として生計を立てるようになっていきます。
相談に来る女性たちは「別れた恋人と復縁できる可能性はありますか?」、「私はいい結婚相手と巡り会えますか?」といった「男を頼りにする道」を聞いてきます。自立心の強い仙子は説教したい気持ちを抑えて、似たり寄ったりの相談を聞き続けます。そして、良い結果を伝えた相談者はそれっきり姿を見せなくなりますが、厳しい結果を伝えると、再訪して同じ相談を繰り返すのです。そのことに気づいた仙子は、次のような考えに行き着きます。
もしかすると女たちは、真実を知りたいのではなく、自らが望む答えを「千里眼」の口から聞きたいだけなのではないか。となれば、ここに通ってくる執拗な相談者を追い払うにもっとも有効なのは、真実ではなく女たちの望む答えを放ってやることなのではないか━━。
結局、仙子は女たちが男の顔色を窺って生きていくさもしさを見せつけられるのに嫌気が差し、見入りの良い占い師をやめてカフェーのレジ係に戻ってしまいます。ですが、それから数ヵ月たって、街角で執拗に仙子の相談室に通ってきたある女の不幸な姿を偶然見かけ、「あのとき、真実を譲らなかったら」とキリリと胸のうずきを感じるのです。
その女は夫と娘にべったり依存するしか生きる術がなく、夫が他の女に心を移しているのを疑って何度も相談に来ていたのですが、仙子はその女をうとましく思い、「ご主人も間違いなく、あなたを大事に想ってらっしゃいます。あなたが気をつけることはひとつだけ。不安に囚われないことです」と言って女を送り出したのです。女も「最後にはちゃんと真実に辿り着いた」と喜んで帰途に着いたのですが、路上で見かけた女と幼い娘は神経質そうな夫に冷たくされ、娘は時折、父親にぶたれたりしているようでした。
「どれが真実かなんて、誰にもわからないことだもの」。仙子はそう声に出して自らに言いきかせ、自分の人生を生きていきます。
百年前の女たちの悩みには現代の女性と通じるものがある
その他、何の取り柄もなく、両親から縁談のプレッシャーをかけられる知枝が、知人女性の仏壇に飾られた遺影からその祖父へのあこがれを膨らませ、死者の声を降ろすという老婆に出会う「頓田町の聞奇館」、自分の家の平穏さに物足りなさを覚え、町内の家庭を甲乙丙丁でランク付けして、その推移を書き込むようになった政子が、平凡だと信じていた我が家の実情を知ることになる「深山町の双六堂」、画家を志して絵画教室に通う佐代が、付き合っている武史郎の心が破断になった婚約者にあると妄想を抱き、良縁を自ら逃してしまう「北聖町の読心術」など、『占(うら)』には7つの短編が掲載されています。
各々の短編は独立しているのですが、「頓田町の聞奇館」では知枝が英語を習いに行っていた教師として翻訳家の桐子が再び登場しますし、「北聖町の読心術」ではカフェーのレジ係として佐代と武史郎の交際を見守っていた仙子が最後に登場します。自分は愛される資格がないと思い込み、武史郎を失った佐代に仙子はこうアドバイスします。
彼はあなたの控えめな性格や柔和な容姿が好きで、ゆっくり無理なく交際していこうと考えていたのに、あなたが探られたくない婚約者のことで引っかかっているので、諦めてしまった。あなたはまず、あなた自身の内にすくっている不安にちゃんと向き合って、それを克服しないと、誰と付き合っても同じことの繰り返しになりますよと。
物語の舞台は百年近くも前なのに、『占(うら)』に登場する女たちの悩みや不安は現代に通じるものがあります。大企業では総合職が一般化し、女性が男並みに働くのが当たり前の時代になりはしましたが、子供を産み育てるのは女性だし、家事の大半を担うのは今でも女性です。
鑑定所に来られる独身のお客様のなかには、「ずっと働き続けてきたけれど、たいした貯金ができるほど稼げるわけでもない。やっぱり、専業主婦の方が楽ですよ。生活費は夫が稼いでくれて、自分で働いた分はみんなお小遣いになるんですから」とおっしゃる方もいます。
あるいは、「お金さえあれば暴言を吐く主人と別れたいのですが、持病もあるし、ペットも飼っていて、経済的に難しい。宝くじは当たりませんか?」と真顔で尋ねる50代の既婚のお客様もいらっしゃいます。
占うというのは自分と向き合うこと。素敵でない自分、人並みにすらなれない自分、取り柄のない自分を受け入れ、生きていく意味を見出せなければ、人生は苦行になってしまいます。お客様が喜ぶ「真実」は語れないかもしれませんが、誰かに悩みを話すことで元気を取り戻し、腹を括って人生に向き合えるような鑑定をしていきたいと、『占(うら)』を再読して思った次第です。