最後のこまばアゴラ劇場での観劇!「S高原から」こまばアゴラ劇場サヨナラ公演 青年団第99回公演(@こまばアゴラ劇場)を見て来ました!
「S高原から」こまばアゴラ劇場サヨナラ公演 青年団第99回公演(@こまばアゴラ劇場)
作・演出:平田オリザ。2024年5月をもってこまばアゴラ劇場が閉館することとなった。
本作の作・演出である平田オリザの実家でもあった場所を平田さんの父親が劇場に改装した。
劇場が開館したのが1984年らしい。平田さんがまだICUの学生の頃。
私もこの年は学生で関西にいて、1985年に東京の制作会社に就職するためにやって来た。
時は80年代の小劇場ブーム。「広告批評」でも次世代の作家や演出家などが取り上げられていた。
野田秀樹、宮沢章夫などなど。平田さん(1962年生まれ)の率いる青年団はその少し後の世代となる。
「静かな演劇」という名前が冠され「東京ノート」で岸田戯曲賞を受賞したのが1995年のことだった。
その後、青年団が有名な劇団となっていった。私が最初に青年団を見たのが
その翌年の1996年の「冒険王」(@こまばアゴラ劇場)だった。
あれから約30年近く「青年団」の舞台を見続けていることになる。
青年団を知るきっかけになったのは城山羊の会の劇作家であり演出家である山内ケンジさんだった。
当時、山内さんはCMのディレクターもされており、仕事で何かのTVCMの企画を相談した時だった。
山内さんが演劇がお好きだと伺っていた。この次期1995年に初めてナイロン100℃を見て「カンゲキ熱」が
再燃した時期だった。打合せが終わったタイミングで思い切って伺った。
「最近、面白い演劇ありますか?」
すると山内さんが
「『青年団』がいいですよ!」
とおっしゃった。
最初はこの劇団の名前を訊いて、まず村の「青年団」を思い出した。
なので、瞬間的に新劇的なトラディショナルな村芝居みたいなものを想像してしまった。
しかし、その予想はいい意味で大きく裏切られた。
調べるともうすぐ公演があることを知る。初めて「こまばアゴラ劇場」に行った。
当時は劇場の向かいにある現在はインド料理屋さんが喫茶店だった。
当日券か何かを買い求めたように記憶している。
開演までの時間を過ごすために妻とその喫茶店に入っていたら、
まさにそのタイミングで山内ケンジさんが登場された。
山内さんとまさに同じ日に観劇するという偶然。
公演の折り込みを見ると、出演者に山内健司と書いてあり、
その時に瞬間的に、
あ、山内さんは俳優もされているのか?
でも公演の直前にこの喫茶店でお茶とか飲んでいていいのか?
などといろんな想像が去来した。山内さんが、
「もうすぐ始まりますよ!」
と言ってその喫茶店を先に出られたので、てっきり出演の支度をされに行くのか?と思っていた。
私たちが劇場に入ると、その山内ケンジさんが観客席に座っておられ、
私の中に去来したものは妄想だったことが証明された。
俳優の山内健司さんはまさに目の前でイスタンブールに長逗留している
バックパッカーの役を演じておられた。
その後、劇作家・演出家の山内ケンジさんが登場するのだが、
城山羊の会の公演パンフには注意書きとして「青年団の山内健司さんと同姓同名の別人です」
という文言が長らく記載されていた。
そのようにして山内ケンジさんも演劇の世界に飛び込んで行かれた。
私と言えばそれからさらに演劇熱が加速し、年間100本前後の舞台を見るようになっていった。
演劇の劇評講座などにも通い、そこで出来た知り合いたちといっしょに演劇鑑賞者が作る
演劇のフリーペーパー「プチクリ」を十数年運営することとなった。
それは、私が50歳になるあたりまで続いた。
現在は縁あって「カンゲキ大賞」の委員のお手伝いを
ささやかながら、やらせていただいている。
委員の仲間でYu_Seさんという方がいて彼の超長文のカンゲキレポートにはいつも舌を巻く。
でご覧になれます。
さて、こまばアゴラ劇場との思い出話が長くなってしまった。
何度目かの「S高原」の観劇、いつもの青年団の俳優である井上みなみ、島田曜蔵、大竹直、などなどのメンバー。
いつものメンバーのいつもの芝居を見て、ああああ、これが青年団や!と実感する。
俳優のチカラも含めて
「青年団」の持つ独特のブランドと言うのか?
トーンが保たれるのが素晴らしい。
以前、本広克行監督がアゴラで演劇作品を演出する時に縁あって何度か5階
にある稽古場にお邪魔したことがあった。その時に稽古後に俳優たちが小道具をどうするか?
衣装をどうするか?ということを細かに話しておられた。
小道具などの運搬のこと、いつまでにそれらをやるか?などなどということが
話されそれがとても自然だったことに衝撃を受けた。
まさに作品作りにみんなが全身全霊をかけて取り組んでいるのか!ということだった。
こうしたことの詳細は想田和弘監督ドキュメンタリー「演劇 」がリアルに切り取っている。
青年団の特筆すべきことは、そうした演劇の組織集団を作り上げたこと。
ここには経営のコアとなる要素も多く含まれている。
そして現在DAOなどと呼ばれて流行り言葉のようになっている「自律分散型組織」としての
活動が自然と行われていたことがわかる。民主的で男女や年齢の差などがまったく感じられないフ
ラットな組織だった。そうした人材を輩出していった活動の拠点が
駒場から失われていくことはとても残念である。
しかしながら平田さんはその手法などを現在は豊岡の「芸術文化観光専門職大学」などで
実践されているのだろう!そんな30年近い記憶とともに本作を鑑賞した。
生と死の境界があいまいな場所が舞台。高原の療養所である。
ここに入所している患者たちと医療関係者そしてそこに面会に来る友人や知人などが織り成す物語。
台詞の中に隠れている舞台上では起きていない様々なことを想起させる。
その事実を組み合わせていき観客は彼らのこれまでの人生を想像し、
今をどう生きているのか?を想像する。演劇とは俳優が生身の身体を使いながら
観客の想像力と対話する芸術ではないだろうか?本作を見るとそのような思いをさらに強くする。
堀辰雄の「風立ちぬ」の一節が何度も登場する。「風立ちぬ、いざ生きめやも」この「生きめやも」とは何か?
ということが繰り返し問われ、観客も共にそのことを考える。
「風があるということはこの世の中で生きているということなのでは?
それを感じて私もよしもっとちゃんと生きよう!いやでも生きていられないんだな!私は…。」
という意味なのでは?とこれを見ていて思った。
死を身近に感じるようになるとこうした気持ちが生まれるよね。
ということが私のような歳(62歳)になると実感する。
毎朝、起きるときに、「あ、生きてた。良かった。」というような想いに駆られることが増えて来た。
そうして、いつも、私はいつまで生きられるのだろうか?などということを夢想して、
いつ死んでもいいように、今を懸命に生きようと考える。
演劇と言う芸術は「演劇」という手法を使って私たちにそうした「生きるとは?」
みたいなことを考えるきっかけを与えてくれる。
そのことが私が観劇を40年以上続けて来ている最大の理由かもしれない。
大阪からこまばアゴラ劇場のサヨナラ公演に来られてよかった。
そして「ありがとう。こまばアゴラ劇場!」
そういえば、こんな言葉があった。
「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」
この言葉は私は映画監督の川島雄三の言葉だと思っていたが、
中国・唐代の詩人・干武陵の漢詩「勧酒」の一節「人生別離足」を、
小説家の井伏鱒二が独自解釈で訳した言葉です。と以下に書いてあった。
(引用元:https://www.trc.co.jp/la/columnsbn/bnstock/13-columns.html)
その「サヨナラ」は新たなスタートでもある。
9月には豊岡演劇祭がある。そして、演劇はどこでも創作が出来るし続けることも出来る。
そして作品を通して観客と対話できる。そんな「芸術」です。
上演時間1時間45分。4月22日まで。
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