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【ヨガ話】疲れて帰ったときほど居間でごろごろしちゃうの、なんでだろう?(ブラフマチャリヤ)

ヨガ哲学で生き方を見直そうシリーズも第4回である。ブラフマチャリヤを考えるにあたって、ヨガ哲学を学び始めたころのノートを振り返ったら、「実践できてなくて耳が痛い」と書いてあった。さて、今はどうだろう。1年ちょっとでできるようになっているのか、まだまだなのか。

ブラフマチャリヤの定義

禁欲」と訳されたりするのだけど、もう少し直訳すると「神と共に歩くこと」みたいな意味である。「ブラフマ」の意味は「宇宙の源」「創造神」で、ヒンドゥー教の神々はここから発生するとされている。で、「チャリヤ」は「char」+「ya」=「歩く」+「行い」=「実践」をあらわす。まとめると、「創造神+歩くこと」→「神と共に実践する」→「規律正しい生活をすること」ということになるんだそうだ、サンスクリット語的には。そして「12年間規律正しい生活を続ければ、強さと力が身につく」とヨーガスートラには書いてあった。ヤマ(控えるべきこと)とニヤマ(推奨されること)を守って生きると望みを叶えるパワーが身につく、とな。え、なにそれ、ほしいじゃん、そのパワー。

元々は、性欲を「修行を邪魔するもの」と考えて、コントロール・制御することから端を発したらしい。無駄なことにエネルギーを使わずに目標を目指す、そのために無駄なことをしたくなる欲望、本能を制御しましょうということだ。「無駄なこと」に汎化される行動を考えてみると、あーたしかに実践できてないこといくつか思い当たるなぁという感じ。自分の行動で振り返ってみよう。

夜中のスマホ

演劇制作という職業柄、夜公演があると帰宅は深夜になる。帰宅後にマストなのはお風呂に入って寝る、なのだけど、なんでかここで、謎のまったりタイムが生まれることがある。まっすぐ自室に戻って荷物を置いて、お風呂の準備をすればいいって、頭ではわかっている。わかっているんだけど、なぜか居間に荷物を置いて、お茶とか飲みながらSNSとか動画とか見ちゃうのである。あれ、なんなんだろう。なんとなく、まっすぐお風呂に入る気力が足りない、ちょっとまったり、もしくはごろんとしてから次の行動に移りたい、みたいなやつ。その時間にやる必然性、皆無。

さっさとお風呂に入って一刻も早く寝て、明日までのパワー回復の時間を作った方がいいに決まっている。それがブラフマチャリヤだと思うのだ。そして、あぁ、やっぱり1年以上前からブラフマチャリヤを知っているのにまだまだやってるな、これ…。

生きるのに必要なことだけをやれば人生が豊かになるかって言ったら、それはちょっと違うと思ってはいる。たとえば私はヨガのほかにもバレエを習っていたり、毎週「光る君へ」を毎朝「虎に翼」を視たり、ネイルを塗ったり、こういう楽しみな時間は「なくても生きていける」とは思っている。そもそも私の仕事はコロナ禍に「不要不急」と言われた演劇・エンタメ業界である。でも、ここで言われている「無駄なこと」は、こういう生活に潤いとか輝きをくれるものじゃなくて、ヤマ・ニヤマを実践してヨガの目的を達成することを妨げるもの、だと解釈すれば、趣味嗜好に蓋をしなさい、ということにはならないんじゃないかな。

ヨガの目的にもいろんな説・解釈があるだろうけど、私は「こころと身体の安定」だと思っている。ヨガの語源はサンスクリット語の「ユジュ」、「結ぶ」「つながり」「統一」という意味がある。夜中の無目的なスマホいじりは「こころと身体の安定」につながらない。自戒。

「余計なひとこと」言いたくなっちゃう欲求

言わなくていいことを言う。これはもうひとつ別の解釈というか、怠惰な意味での無駄なこととはまた違った、文字通り「余計な」行動の代表例である。たとえば私はロビーチーフという劇場ロビーで働くスタッフをまとめる役割をよく担うのだけど、スタッフがミスを繰り返したときなんかに出そうになる。1度や2度のケアレスミスや勘違いは仕方がない。人間だもの。だけど、何度伝えても似たようなことが起きる、まったく同じではないけど同じ原因で起きているミスが頻発している、みたいなときに、言わなくていいひとことをつい追加したくなってしまうのである。「こないだも言ったけどさー」「そろそろ覚えてくれないかな」「ちょっと考えたらわかるよね?」みたいな類の、つけなくてもいい皮肉な言葉が喉元に上がってくるのである。

ちょっと前まではこれが結構、喉元じゃなくて口から出てしまっていた。口だけじゃなく、顔にも出ていた。何度も言うの、うんざり、みたいな顔と呼吸。そんな言葉と態度では相手の行動は望む方向には変わらない。言われた本人は謝る以外にできることもなく、しょんぼりしているからまた失敗しがちになる。悪循環だし逆効果。

だからと言って指摘もしないで放置するのでは問題はなくならないから、やっぱり伝えることは必要だと今でも思っている。そして私が困っているなら困っている、ということを伝えること自体は間違いじゃないと思う。だけど、「余計なひとこと」は文字通り余計な刺し傷を作るだけだ。フィードバックをするときにはなぜその仕事をそのやりかたではないやりかたでやってほしいのか、目的とか意図を伝えるようにしているのだけど、何度伝えても伝わらないならもうそれはこちらのアサインミスの可能性だって高い。であれば、いらんことを言ってひとを傷つけるのはアヒンサにも反するわけだし、嫌みを言いたい気持ちがわいてきたらそれが課題解決につながるのか、ひと呼吸考えてから言葉を選ぼう。これは完璧じゃないけどちょっとずつできるようになってきてはいる、かな。歯切れが悪いけどそんな感じ。

ブラフマチャリヤを通して思うこと

私はあまり宗教的なこととかスピリチュアルなこととかには懐疑的というか、科学的な根拠のないことには首肯しがたいものを感じている。なので、ヨガがちょっと宗教的なことを言いだしたときには身構えがちなのだけど、よくよく知っていくと、言ってることはすごく実際的というか生活に根ざしていて受け入れやすい。ブラフマチャリヤは「神と共に歩くこと」なんて言われたら無宗教な私には「はて?」なのだが、「欲求をコントロールして正しく生活する」なら、すごく普通で当たり前だけど結構難しいぞ、と腑に落ちるものだ。

私は自分の生業も趣味も、究極、なくても生きてはいけると知っている。だけど、ここでいう「禁欲」はそこをふさぐ前にあるもっと「無駄」あるいは「余計」なことを無意識・本能的にやってしまうのを自分が主体となってコントロールせよ、という意味なんだと理解している。そして自分が意思をもって自覚的にやる・やろうと思っていることにその時間とエネルギーを使えるなら、たしかにそれは「望みを手に入れるちから」が身についていることになるのかも。

「控えること」をまとめたヤマだけど、「控えた先にはこんな素晴らしい世界があるよ」も言ってくれるところが好き。これからも掘って掘って掘り下げよう。

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