ともくんは、平成25年生まれ。障害名はついていません。いわゆるグレーゾーン。普通学級に1年通い、勉強も頑張りました。2年生からは、障害クラスに入り、お母さんもともくんものびのびたのしく生活できるように少しづつなってきました。
いきものが好きで、カマキリを飼ったり、抜け殻を収集したり、遺跡を掘りに行くのが好き。いろんないきものにとても興味があり、調べるのも得意。おともだちからは、いきもの博士と呼ばれることも。
ともくん 20231223 「水難の日」
終了後の経過について 親御さんから
前回を踏まえた検証と考察
>急遽体験者が3名入ったため、グループとなったので、次回に持ち越し。
印象記録
途中、机の上に置いてあった花バケツを倒したため、中断。
その際に、親御さんが慌てていたため、画面の向こうの2人を落ち着かせるよう、気を配り、指導。ともくんが、このことで、花を嫌いになるようなことにならないよう、促す。
重い花ばかりが入るとバケツは倒れる、という体験をともくんが出来たこと、その体験で、じゃあ、次回はどうしたらよいのか、を考えられるようになればいい、と、考えた。
が、誰が悪いかの争奪戦のようになったため、
「誰も悪くない」旨を伝える。
この場合、誰かが悪いことにすると、全員悪人となってしまう。
重いとわかって置いた人、それを見ていた私、倒したともくん、その場所を選んだ人、花を選んだ人、水を汲んだ人・・・等々関わった人が全員悪になる。
母親のせいでもなく、負荷効力である。
結果、怒鳴った自分のせいであり、悪い、となってしまう。それは避けたい。
理想で言えば、その場を二人で善処して一緒に乗り越え、次に起こらないよう2人で決めて、次回それを実行し、
それでもまたなにか起こったら、決めたことを微調整して改善してゆく。
ひとつの懸念としては、
「怒りが爆発した」のは、
なぜ、「爆発」なのか?
のほうが、肝要だ。
反省ということでもなく、
自分を見つめ、
違う怒りも混じってはいなかったか、
違う理由も混じってはいなかったか、
など、
子どもから与わる贈り物のような、自分を知るよい機会のようにも思える。
反省の感覚は様々あり、自分が悪い、としてしまうと、
誰のせいか、が、また決まってしまうこととなる。
自己成長の機会とし、自分の特徴や内面を知ることで、出る言葉や怒りの爆発は自然に変化する。
お母さんは、私のこの言葉だけが響き、残っており、そのほかの、
「倒したともくんが悪いなら、おかあさんの危機管理も悪い」
「不可抗力で、誰も悪くない」
「形あるものは必ずいつか壊れる」
「水をこぼしたり、高価な花器を生徒さんが割っても叱ったことはなかった」
「たいしたいい親でもなかったが、自分の子どもには、わざとでなくものを壊してしまってしょんぼりしていたときには、叱らないよう気をつけた」などなど、
自分の体験も踏まえながら、
いろいろと説明した言葉は、
それどころではなく、覚えていないのかもしれない。
相手が気が動転してパニック状態の際には、どうしても子どもを観察するため、
親御さんへは、長い説明よりも、
結論だけを的確に伝えるように、意識をもって講座を行うことにする。
危険がない、解決できる、問題はなんとかなる場合、水をこぼしてPCが壊れても、死なないし、傷つく人もいない。親は大変になるが・・。
ともくんは日常的にモノを壊す子ではなく、大切にする子だということは、親御さんもちゃんとわかって理解している。日常的にはどうなのか、で、何を話すかは違ってくる。
子どもに怪我がなかったので、𠮟れたのだとも思う。
ともくんやお母様に怪我がなくよかった。
前回の記事で(療育花育の記録#5ともくん 参照)
と書いた。今回のことで、親子の深い信頼関係を見ることができた。
現場から
ともくんは、濡れたこともあり、気を変えるため、お風呂に入り、元気になり、平常な心理となった。
責めた母を許しているし、愛していることが伝わってきた。
そして、何かの際に、萎縮せず、自己主張もできる。逃げることもできる、こころの強い子のように思った。
母親も勿論子供をゆるし(PCは修理に出たそうだ)責任をとり、現状解決をした。
他の花育講座でもそうだが、以前より、親と子、同時に花育をすることが、最善のように感じる。
療育の場合は特に、一方だけではないのかもしれない。
なお、作品はいつもよりは、粗い。
次回考察
1)オンラインで欠席者があり、実質的には個人レッスンになるため、自分の感覚を思い切り出し切ってもらえるよう促す。
2)枯れたミイラを、人の手によって美しくできることを伝えてみる。
―to be continued