フェミニズムと文学~今こそ読みたい『スウ姉さん』
『赤毛のアン』や『若草物語』に比べるとそこまで有名ではない、気がする。でも確実に今響く、ジェンダーをテーマに扱った小説がエレナ・ポーター『スウ姉さん』だ。河出書房新社から村岡花子の訳で日本語版が出ている。
「原作者のことば」はこんな出だしから始まっている。『スウ姉さん』の主人公は「スウ姉さん」と呼ばれ、家族全員から頼られている女性、スザナ・ギルモアだ。父は銀行家であり裕福な家庭だったが、スキャンダルにより貧困に陥ってしまう。家族や恋人の反対に立ち向かいピアニストになる夢を追おうとしていた「スウ姉さん」はあきらめ、引っ越しから衰弱した父の世話まで全て引き受けることになる。「家族」を支え、頼られながらも、顧みられることのない女性。「陰」に隠されていた女性を主人公にしたのが『スウ姉さん』だ。
犠牲と美徳、シスターフッド
スウ姉さんのまわりは恐ろしいほど身勝手な人ばかりだ。弟と妹は贅沢尽くし、父は高圧的に振る舞い、スウ姉さんが夢を口にすれば、自分の損得を基準に猛反対する。都合よくお世話をしてくれるスウ姉さんがいなくなってしまうからだ。親戚も恋人も、ギルモア家にお金があるときはすり寄り、没落した途端に理由を付け離れていく。作者のポーターはその差を残酷に描き出すのだ。特にひどいのが恋人であり、作家のケント。スウ姉さんの夢に反対し、自分と結婚する方が幸せだと詰め寄る。しかしギルモア銀行が破綻した途端、結婚の話は「け」の字も出さなくなるのだ!
こんなことを言ってのけるケント。周りの人々がいかに自分に都合の良いように振舞うかが描かれていて、気分が悪くなってくる。ポーターは、「結婚」「恋愛」をロマンティックなものというより、むしろ都合よく利用される場として描き出している。
では、スウ姉さんは皆と違い高潔な、かわいそうな犠牲者なのだろうか?それも違う。『スウ姉さん』の「解説」で、川端有子はこう書いている。「運命に耐え続けるけなげで辛抱強い女性を思い浮かべるであろう、あなた。それは間違いです」(p.310)。「スウ姉さんは、血肉備えた人間味のある女性として描かれている。我慢できなくなれば、自分の部屋にこもって呪いの言葉を吐き続け、ピアノにあたりちらして鬱屈した思いを発散させ、何かと親身になってくれる近所のプレストン小母さんに愚痴をこぼしまくる」(p.310)のだ。「苦難でも笑顔で耐えるヒロイン」が典型となっているだけに、なかなか強烈な印象を残す。でも、考えてみれば当たり前の反応なのだ。スウ姉さんの状況になれば腹が立つのは当然。むしろそれでも十分耐えているように見えるのだが(しかしそれでも改めない周囲の人間)。
スウ姉さんの唯一の味方と言えるのがプレストン小母さんだ。スウ姉さんに愚痴をこぼしても良いと教えたのは彼女であり、家事の工夫も弟妹たちへの対処法も一緒に教えてくれる。押しつけがましくも下手に同情することもない、きっぱりしたキャラクターだ。スウの支えになっているのが「家族」でも恋人でもないところが肝だと思う。ちなみに、プレストン小母さんが最後に、尚も文句を言い続ける弟たちをやりこめるところはスカっとする。
シェイクスピアの妹
ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』に出てくる有名な喩え「シェイクスピアの妹」。もしシェイクスピアに妹がいたら?という設定で、ウルフは話を進めていく。溢れる才能を持っていても、「兄」とは違い、女性だから教育も受けられなければ対等にも扱ってもらえない。シェイクスピアの妹の夢は途中で潰えるのだ。「芸術家」に男性が多いのは、男性の方が優れているからだろうか?同じくらい才能のあった女性がいても、彼女が前に出てこないのはなぜ?この話が、初めて読んだときからずっと頭の中に残っている。
私もそう思う。この物語は一応「ハッピーエンド」の体をとっているが、「解説」でも書かれている通り、とても苦々しい気持ちになる最後だ。これはポーターの皮肉なのか、時代性なのか、明るい結末と受け取れるのか、分からない。でも、女性が自立や芸術など「男性の分野」とされている場所に踏み出す時に遭う困難を描いているのは確かだと思う。それが今でも続いている*ことを知っているからこそ、『スウ姉さん』の話は響く。今の時代に読みたい名作だ。
*この記事とか。
『スウ姉さん』
エレナ・ポーター、村岡花子(訳)、河出書房新社、2014年。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?