なぜ分断されるのか 山内マリコ『あのこは貴族』
読み終わったあと、「私は」と語り始めたい気持ちでいっぱいになった。「私は」に続くことばは、私はこうだった、私はこう思う。きっと多くの人が、この小説を読み終えたときに自分の経験を言葉にしたいと思うのではないだろうか。
榛原華子と時岡美紀という、全く違う環境で育った2人の物語だ。華子は、渋谷区松濤で、親が整形外科医をしている裕福な家で育った。結婚を望み婚活をしている。物語は榛原家が帝国ホテルで迎えるお正月という華々しい場面から始まる。ホテルや美術作品の固有名詞が次々と飛び出し、榛原華子を記号で彩る。
時岡美紀は、地方都市で育ち大学進学のため上京した。慶應義塾大学に入学するが親から仕送りを止められ中退する。ホステスやラウンジでの仕事を経てIT企業で働いている。
「世間知らず」
作中でも言われているとおり、華子は「世間知らずのお嬢様」「箱入り娘」と形容できる。できるけれど、「世間知らず」のいう「世間」ってなんだろう、と思った。東京の裕福な地域に住み、決まった名門校に通い、由緒あるホテルやレストランで食事をするというのが華子の「世間」だ。本人が言うようにそれは狭い世界だが、でもその世間のことはよく知っている。お金持ちの家に生まれた女性ほど「世間知らず」と言われやすいが、それぞれが知っている「世間」があるだけではないのだろうか。読んでいてそう思った(というか、同じ裕福でも男性より女性の方が「世間知らず」と言われるのはなんでだろう……)。
美紀の地元を描いた場面でも「世間の狭さ」が話題になる。生まれ育った町を出ていない美紀の弟は、同じ仲間とつるみ、同じことをして過ごす。町を出ていない人たちは、この世界しか知らない。こうした町のことを知らないであろう華子が「世間知らず」と言われ、美紀の弟のような人が「世界を見ない田舎者」と呼ばれるのかもしれない。でも、そこで言う「世間」「世界」なんて、一部の人が言うだけのとても狭いものではないだろうか。美紀は最後に、お金持ちのコネと血縁の世界を「地元みたい」だと感じる。地方でも都市部でも、似たようなことがおこなわれているのだ。
狭い世界を回しているのは誰
しかし、単に「狭い世界」ではなく、男性が中心となって回している狭い世界である。華子の家族は、病院の跡取りとするよう医師との結婚を華子に勧めるし、途中で出てくる華子の婚約者の家族も似たようなものだ。美紀は横暴な父親から仕送りを止められ、酒の席でも「昼の仕事」でも女性は飾りとして扱われ、差別されていることを実感する。それなのに、女性同士は「既婚/未婚」「専業主婦/OL」「正規雇用/非正規雇用」で分断され、対立させられる。
「世の中にはね、女同士を分断する価値観みたいなものが、あまりにも普通にまかり通ってて、しかも実は、誰よりも女の子自身が、そういう考え方に染まっちゃってるの」(pp.226-227)
私は、東京から遠く離れた田舎で育ったため、華子の住む世界はあまりに整っていてくらくらした。しかし、ちょうど少し前に読んでいた『早稲田と慶応の研究』という本に書かれていた慶応義塾大学の様子と、本作に出てくる慶応内部生の描写がそっくりで、本当にこんな世界があるものなのだと震えた。富裕層が住むエリアの塾で働いていた知人も、びっくりするレベルのお金持ちがいると言っていたっけ。私はやっぱりどこかで羨ましいと思うが、人を分断するこの狭い世界の決まりがいかに馬鹿馬鹿しいことか。
本作に出てくる華子や美紀、華子の友人の相楽さんは、「箱入り娘」「帰国子女」などステレオタイプで語られやすい人物像でもある。そうしたくくりに入れることでわかった気になるような。分断だけでなく、女性を取り巻くラベリングがいかに多いかを表しながら、一人ひとりを丹念に描く。それによって、ステレオタイプから解放していく(本人の性格と、固定的なイメージが重なる部分はもちろんあるのだが)。自分では決して味わわないような暮らしを、華子の世界を読むことで追体験できた。そして最後の解放感にほっとした。本作はけして、結婚も仕事もバカにしていない。選ばざるを得ないことに怒りながら、それぞれの置かれた状況を語り、乗り越える様を軽やかに描いている。
山内マリコ『あのこは貴族』集英社