胎内記憶と宇多田ヒカルさんのノンバイナリー公表
日本でも、性別に男と女以外にもいろいろなゾーンがあることが明らかにされる機会が増えた。
宇多田ヒカルさんの公表についてもまた、新たなワードが出てきた。
ノンバイナリー
簡単に言うと『男女どっちでもない』という感覚を持つ人。
私は母親の胎内にいた頃の記憶がある。
外部からの音もよく聞こえていて、胎内で起きている時に聞いた父親と母親の会話も覚えている。
その頃の性自認は特になかった。
というか、肉体を感じにくかったので。
感じられたのは音や胎内の温度。
性別について意識したのはたぶん、5歳くらいで遅めだった。
兄がいたので兄のトイレの真似をした時に、自分とは違う種類の人間がいることに気づいたのだった。
そして、小学生になる頃までは、私も兄と同じ年齢になったら同じ種類の人間になれるのだと思っていた。
周りの女の子が着飾ったり好きな男の子の話をしていることも、あまり意識に登らなかった。
興味がなかった。
人間より犬や猫の方が好きで、人形は苦手で動物のぬいぐるみにしか興味がなかった。
性別なんて気にすることも無く過ごしていた。
小学生の頃には、週末になると知り合いの三姉妹のいる家に預けられていた。
3つ上の子と、同じ歳と、3つ下(たぶん)の姉妹だった。
その家で暇つぶしに読んだ少女漫画から、人は恋愛をするものだと学んだ。
そして、男女で付き合うものであるということもその際に学んだ。
当時はまだ、現代のような性の多様性は明らかにされておらず、むしろ隠さないといけない風潮だったと思う。
田舎だったこともあり、男は男らしく、女は女らしくという暗黙のルールが濃かった。
私は家事を手伝わされるのも嫌だったし、女子も男子も好きではなかった。
人間として仲良くなりたいという気持ちはあったが、男女に別れて遊ぶような環境だったこともあり、また、私が少し変わった子だったこともあり友達はほとんどいなかった。
今でも『男らしく、女らしく』みたいにはっきりした価値観はないし、好きではない。
人それぞれの特性に応じてそれぞれできる範囲で何かしら貢献できることで自身の役割をやればいいのでは、くらいに思っている。
結局、適当に自由な感じが良いと思っている。
人気不人気、合う合わない、好き嫌い、生理的に受け付けないなどあるので仕方がない。
人間であることはやめられないし、何かになりたいわけでもない。
みんな生まれた頃からの記憶があるわけでもない。
こういうものだ、と教えられ自覚しながらそれぞれの役割を身に付けてきたのだろう。
それぞれ無理のない範囲で自由でいられたら、穏やかに暮らせるのかもしれないね。