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監獄から脱出せよ! 分断されない生き方



 働かない/働けないとなぜ身動きが取りにくくなり生きづらくなるのかを突っ込んで書いてみたい。競争社会への批判、労働が苦痛だという認識が広がる中、働かないのも一つの選択だと思う人も増えてきた。最低限生きていく金は生活保護で支給される。しかし、働かないで暮らすと人生バラ色になるのかと言われるとそれは難しいのが現実だ。

 今回、問題として指摘していくのは、①経済的自立ができない人は社会的信用を得にくく、人間関係の広がりに制限がかかり、孤立しやすく生きづらくなること。

 さらに、②居場所や人間関係が狭い範囲に固定されがちになり、外に出ていくスタミナを失いやすくなること。

 そこで、③システムに過度に依存したり、与えられることだけに満足せず、自分から主体的に行動したり人間関係を広げるクセをつけることが大事だということを書いていく。


1.経済的自立をしてないと社会的信用を得にくく不自由になる


 経済的自立をしてないと社会的信用が得にくい。生活保護を利用しているとか、いい歳して実家に住んでるとか引きこもりなどは、いい目をされず中々相手にされにくい。信用がないため人間関係が築きにくく、他人に対して自己開示もしずらい。そのため、孤立しがちになる。また、人から疎んじられているというマイナス感情から人を避けるようにもなる。お金もないし、他人にも頼れないとできる行動や取れる選択肢が狭まる。肩身の狭さから行動も萎縮してくる。そういう負のスパイラルに陥ってしまう。

2.社会で立ち回る力を奪われ身動きが取れなくなる構造


 一般的な就労が難しいと、作業所や就労支援にしか行くところがなくなる。作業所などは孤立しがちな人にとって誰かと関われる場となるため必要性はもちろんある。自分たちの障害やマイナス性について理解ある場にいたいと思うのももっともだ。

 しかし、ここには罠がある。合理的配慮の下で生ぬるい環境に慣れてしまうと一般社会に立ち向かうスタミナが培えず、外に出て行けなくなる問題がある。また、作業所などで単純な作業ばかりしていると経験や能力が培えない。狭い人間関係の中に閉じられ社会性が身につかないと、外の多様な人との接点や交流の可能性も摘まれてしまう。自分で資源を得たり人間関係をつくっていく能力を獲得できず、与えてもらうことしかできなくなる。

 依存的な弱者となり主体的に行動する力をつけれなくなる。人の自由を制限しおとなしくさせるには、社会で立ち回る力を奪い無力化させることに尽きる。作業所などが収容所のようになっている現実がある。これは、現代の管理社会が意図せず達成してることなのかもしれない。

 そして、当事者の無力感が一番の問題かもしれない。障害者としてでしか自己を表現できなくなったり、自己否定感から自己の肯定的な価値を示しにくくなっている。世間に対する後ろめたさから能動的に何かをしたりもしにくい。そうなると経験も積みにくくなる。依存的なままだと自分で実績をつくりにくくなり、堂々と自己を表現するものを得にくい。自己を表現できないと他者との関係も得にくい。自己を表現する言葉をなくしたり獲得させないことが無力化であるとも言える。

3.新しい管理のあり方:パターナリズムによる生ぬるい排除


 フーコーによると、近代における監獄では犯罪者だけでなく、病人や働けない人、浮浪者なども収監されていたという。働きもせず無秩序に街をうろつく人の存在は社会の秩序を脅かしうるからだろう。このように、生産性がない人や無秩序な行動をする人を社会からつまみ出すために監獄はあったようだ。

 異質な者を強制的に監獄に閉じ込める近代とは違い、現代の管理社会は配慮や安全をうたい人を管理・統制しようとする。それはパターナリズムによる監獄社会をもたらしている。障害者に対して無理をさせてはいけない、危険な目に合わせてはいけないと、リスクをゼロにしようとすると、どこかに閉じ込めるしか方法がなくなる。配慮の名の下で人の自由が制限されることにもなる。

 また、障害者は他者や地域に危害を加えてはいけない、迷惑をかけてはいけない、というゼロリスク思考から、障害者はどこかに収容しようという発想が出てくる。街をきれいに見せようとするジェントリフィケーションも相まって、障害者は街の中から追い出されてしまう。

 現状では、作業所や就労支援などは社会参加の場であるようで、実は社会との関わりが遮断されるようにもなっている。

 障害者の保護や地域社会の安全を名目に、障害者は地域から見えにくい精神科病院や作業所などに追いやられ、存在自体を不可視化させられていく。

 障害者が配慮される空間も大事だが、障害者を地域から見えないところに追いやり、福祉や支援者たちで何とかしとけよという社会からの分断もなされている。このように、合理的配慮の下に障害者や居場所のない者は巧妙に社会の外に追いやられてしまう。優しさでもって社会は人を包摂するように見せるが実際には生ぬるい排除が進んでいる。実に巧妙で、管理社会の新しい形だと言えるのではないか。

 現代の管理は全員をルールに従わせるよう強制するのではなく、厄介者を巧妙に、しかも合理的配慮や人権保護をうたい社会から排除する形をとっている。
 

4.監獄から脱出するには

(1)手加減されない空間にも身を置く

 これまで書いたとおり、誰かに居場所を与えてもらおうという受け身の姿勢や、システムに身を任せているだけでは人は徐々に無力化され、社会の周縁に置かれてしまう。これに抗うには、能動的に自分のできることを増やしたり、人間関係をつくっていけることが必要になる。

 与えられるだけでなく自分で獲得していかないといけない。それが、その人自身の個性を形つくり社会とのつながりをもたらす。甘えが許されるところに依存するだけでなく、外の公共圏に出て行くあがきも求められる。人は自分の弱みなど配慮される空間も必要であるが、生ぬるい関係の中だけでは張り合いを失い弛緩して力を失ってしまう。外の公共圏に出て自分を試したり自分で立ち回っていく経験も必要になる。

 人間同士というのは、踏まれることもあれば逆に相手を踏むこともある。それは、障害者と健常者における関係だけでなく、健常者同士でもあることだ。障害者だからと過度に手加減されたり保護されることを求めすぎると、一人の自立した人間として対応されず、未熟な弱者という位置から逃れられなくなる。

 個人として尊重されるためには、現実の厳しさの中で試行錯誤して、人との信用関係を地道に築いていくしかない。その中でやらかしたり傷つくこともある。前述したが、失敗したり傷ついたりしないようあらかじめリスクを無くそうとすると、それはどこかに閉じ込められるか引きこもるしかなくなる。失敗を許さなくすると行動の芽を摘む。現実の社会に生きていくには失敗する権利を認められ、さまざまなことに立ち向かえることが大事である。

(2)傷つきを過度におそれず、しつこくなる

 傷つかないために人との接触を避ける人もいる。もちろん、人と関わるのが嫌だという人は引きこもるしかないし、それでつつがなく暮らしている人も知り合いにいる。生活保護を利用したらそれはしやすい。そういう生活は尊重しないといけない。何もしたくなければ何もしなければいいのである。しかし、大抵の人は何もしないと自意識をこじらせていらんことをしてしまうようだ。

 傷つくことを過度に嫌がったり避けるのは、自分は損をしたくないとか負けたくないという意識の裏返しなのかもしれない。何やかんや勝ちにこだわっていると言える。人との関係において負けたり失敗したりするのは、社会で生きていく上で仕方ないものと受け入れないといけない。むしろ、完璧でなく危うさに人は惹かれる。

現代における排除の特徴は分断だと言える。あからさまな暴力や言葉による排除ではなく、多くは無視や不可視化により存在そのものを無いものにされたり、社会との関わりを遮断されることによる。この分断の流れに逆らうには、多少疎んじられても相手や集団にしがみついていくがめつさも大事だと思う。

(3)リアルで信頼関係をつくっていく

 人との信頼関係は直接会って交流することでつくりやすい。それはわたしも実感している。ドブ板は何やかんや大事なのだ。冒頭にも書いたが人から信頼されないと人間関係はつくれない。人間関係がつくれないとそれこそ一人で何もかもやらないといけなくなる。そして、今の社会で何かをするには一人でできることは非常に限られてくる。人間関係がないとほとんど何もできなくなる。そして、ひとたび信頼をつくると別の人を紹介されたりして、人間関係が広がっていく。信頼は資源を導くものでもある。よりよく生きるためには信頼関係をつくる必要もある。

 わたしの路上や公共空間での居場所や交流活動は、人との出会いをつくるためである。自分で何もできずシステムに用意された配慮の空間に身を任せてるだけでは社会に向かう力を奪われてしまう。生ぬるい排除や収容所化の流れに抵抗するためでもある。

 自分のやってることは個人レベルでのことなので、公的なやり方としてどうすべきかも最後に書いてみたい。まず、現在の作業所のような閉鎖空間に当事者を囲うのではなく、広く社会と触れられることが大事だ。公共スペースや半公共的な場など人の流れが多い場を利用して、社会と関わりながら活動できたり、フリーマーケットなど気軽に人と交流できる場があることも大事だ。行政のレベルではこのような公共空間の柔軟な使い方を検討すべきだろう。

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