「ファミレスを享受せよ」は停滞を良しとしてくれる物語
物事があまり進んでいないからか、昨晩は「ファミレスを享受せよ」のBGMに浸る気分だった。
この作品特有の、気だるさにそっと寄り添ってくれるようなメロディが好きだ。
深夜のファミレスに、一度だけ行ったことがある。二十歳になったばかりの頃、高校の同窓会に深夜まで参加した帰りだ。
当然、電車はもうない。家が同じ方向の友人と二人、深夜の街を彷徨ってそのお店に入った。
お店にいたのは、フロアに一人だけの店員さんと、同じように終電を逃した人たちだけ。
朝を待つ間、私は眠気覚ましにコーヒーを頼み、友人は紅茶を頼んだ。
疲れもあったし、会話はあまりなかった。深夜独特の静けさを、薄目を開けながら二人で感じていた。
時々、ぽつぽつと同窓会の話や、当たり障りのない話をした。同窓会の時の高揚感は抜け、お互い気の利いた返しはなく、ゆるゆると相槌を打っていた。
途中友人が眠気に負けて沈黙したあと、私は人の少ない店内を眺めた。
顔も名前も知らない、けれど同じ場を共有している人々。この夜だけの、行きずりの同行者たち。
そうして、目を覚ました友人と彼らと、空が白み始めるまでのあいだ過ごしていた。
このゲームをしていると、あの夜の空気を思い出す。
「ファミレスを享受せよ」は、停滞を良しとしてくれる物語だと思う。
進歩がよいことだと、なぜ決まっているのか。
時間とは時にただ、無為に過ごしてもよいのではないか。
⋯そもそも、その「無為」というのも、だれが決めた?
ただ、息をして、ただそこに在ることを、誰が否定できるのだろう。
あの永遠のファミレス「ムーンパレス」は逃避場所なのかもしれないし、迷い込んでしまった者たちを閉じ込めている牢屋なのかもしれない。
セロニカにとっては、前者だった。ガラスパンにとっては、後者だった。
王様にとっては、主人公にとっては、どうなんだろう。
私は、優しい檻だと思っている。
停滞と安寧は、もしかしたらよく似ているのかもしれない。
だからこそ、あの気怠さの混じった深夜のファミレスの空気は、どこか心地よいのかもしれない。
それでもいつかは、きっとそこから出ていくのだ。
時間の経過で、潮目が変わるように。
自分が、あるいは周りが変化して、それがきっかけで、何かが動き出すことがある。
計器が終わりを指し示すまで⋯⋯何万年もかかるだろうが、ツェネズの管理人としての任期も限りがある。
永遠に思えるムーンパレスにも、終わりは必ず来る。
頭のどこかでわかっているからこそ、私たちはその時間を享受するのだ。
「なぁ君、ファミレスを享受せよ。月は満ちに満ちているしドリンクバーだってあるんだ」