自己肯定感に根拠はいらない
自己肯定感に根拠を求めると、しんどい。
自己肯定感を満たす方法に、今日一日でできたことを書き出すとか、とても簡単なことを目標にして、それを次々にクリアしていくスモールステップという方法で自信を持つ、というのがよく上げられている。
私もよくやっているけれど、これは密かな落とし穴を孕んでいる気もする。
成功した時なら、その小さなステップをクリアできている時ならいいけれど。
たったこれっぽっちの小さなこと。それすらできなかったときに、自己否定の連続でしんどいからだ。
できない理由は時と場合によって様々だ。体調、環境、スケジューリングの見誤り。突然降って湧いて出た予定など。自分の力の及ばない領域のこともある。
自分を肯定する理由に根拠を求めていくと、そこを突き詰めていくと、「何かを成さないと存在してはいけない」ということになってしまう。
何もできない自分には、価値がないと。
けれど生き物としての「自分」が存在することに、本来なら理由はいらないはずだ。
価値のあるなしに関わらず、全ての生き物は存在している。
そもそも「価値観」という尺度自体が、人間の目線からであるし。
ただ今の時代、人間とは社会的な存在でもあり、この社会のルール(価値観)で生きていくとなると、やっぱりそこにルールの根拠となる理由が求められる。
しかし、まずは「今ここに存在していること」を、そのまま受け入れても、
根拠がなくても、少なくとも自分自身だけは、自分のことを肯定しても良いのではないだろうか。
価値云々は関係ない、まずはそこからだ。
そんな風に、できない自分を否定することをなるべくやめて、がんばるのは心と体が元気な時にしようと思いながら、最近は過ごしています。
……改めて調べてみると、私が冒頭で使っていた「自己肯定感」という言葉は、正確には「自己効力感」が当てはまるようです。
自己効力感(セルフ・エフィカシー)は、行動や成果を求められる状況下において、「自分は必要な行動をとって、結果を出せる」と考えられる力とのこと。
つまりは、自分を信じる力。
そしてこの文章で話題にしていた「自己肯定感」は、「自己を尊重し、自身の価値を感じることができ、自身の存在を肯定することができる」感情のこと。
これが、ありのままの自分を肯定すること。アナ雪で言うレリゴーということなのだろう(歌詞うろ覚え)。
言葉の使い方を調べてみると、なるほど、「自己効力感」に根拠はあるけど、「自己肯定感」に根拠はなくても良いのだな、と思いました。
そう、これは日々できない自分を、自分で肯定するための文章なのです。