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オタクの中のマイノリティとして生きること

noteを先月から始めて(というか再開して)ちょうど一ヶ月くらいになる。
「好きなものを好きな時に書く」をテーマにしているが、けれどなんというか、暗中模索気味だ。
私は趣味でネットの片隅で小説を書いているのだが、小説の場合は、話を考えた時点で割と完成形というか、答えが見えている状態なので、少しでも近づけようとすることができる。表現に迷いつつも、目指すゴールに迷いはあまりない。

でもこういうエッセイ・記事って、難しい。
わかっていたつもりだけれど、やっぱり難しい。
正解というか、道筋がよく見えない。自分のことだからだろうか。

昼間ぼんやりと考えていて、「共感」って実はものすごく難しいということに気づいた。
読まれる記事、シェアされる記事は共感されるもの。
「わかるわかる!」ってなるようなもの。特に今のスピーディーなネット社会、Twitterなんかだとそれが顕著だ。

でもそれって、実はすごく難しいんだな。
今更ながらそのことに気づいた。

特に自分は、オタクの中でもマイノリティ。
ここでいうオタクはサブカルチャー(漫画、アニメ、ゲームなど)をこよなく愛する人、という意味で使っているが。
オタクがそもそも社会的にはマイノリティの方で、さらにオタクの中でも私はマイノリティに属するほうなのだ。


マイナーなもの。マイナーな部分。コアな部分。
高尚ぶってるわけでもなく、たまたま心に響いた、心が惹かれる場所が、大多数の人と違っていたという、それだけのこと。

けれど、それゆえに理解してもらえることが数少ない。
同好の士であっても、本当に意気投合できる時というのは数少ない。
解釈違いや宗教問題なんて称されたりもする現象に、しばしば合い見舞われる。


そんな自分が、マジョリティの人々が共感する内容が書けるのか、と考えてみたら、ものすごくハードルが高いんじゃないか。
そのことに今更ながら気づいて、途方に暮れたような気持ちだ。


共感、納得、理解。
似たような言葉がたくさんあるが、他者との関わりにおいて、理解<納得<共感と言った感じに段階があるのだと思う。
私のようなマイナー好きなマイノリティは、一番レベルの高い「共感」を目指すのではなく、まずは「理解」してもらうことを目指すのが、一番分相応なのかもしれない。


好きなものに対して「これすごく好きなんです!!」と強く語った場合、よくて「そっかぁ」と言ってもらえるぐらい、下手したらドン引き。

もし「今度見てみるよ」となどと言ってもらって、それだけでも珍しいことだし、本当に見てもらえて「面白かった」「私も好き」などと言ってもらえたら僥倖ものだ。
そんな反応は、これまでの人生で片手ほどぐらいしかない。

語り方が下手なんだとも思う。プレゼンテーションが上手い人というのは世の中に存在する。Twitterのプレゼンとか、純粋に読みたいと思う気持ちをそそられるので、ああいった風に面白くまとめて紹介できる人には憧れる。

私は仕事のプレゼンとかはそこまで苦手ではないが、好きなもの、思い入れがあるものに対してだと、感情を入れ込みすぎてしまって受け入れてもらいにくくなってしまうのかもしれない。

「理解はできても納得はできない」と、誰かも言っていた。(確かDESTINYのアスランのセリフだったかな)

最遊記の烏哭も「感情の介入により情報は歪むんだ」と言っていたから、何かについて語るとき、ある程度、心の距離をおいた方がいいのかもしれない。

冷静になるということ。
利己的でなく、相手にもわかるように、わかってもらうために。
それにより、第三者にも、自分の「好き」を理解してもらいやすくなるのだろうか。

…そもそも論として、好みがマイナーという覆せない前提の事実がある。
それに他人の「共感」を望むのも、どこか烏滸がましいような気持ちがある。
マジョリティの人々に、マイノリティまで降りてきてくれ!というのは、なんだか気が引けてしまう。

だからせめて、こういう人もいるんだな、ここが好きという人もいるんだな、と思ってもらえる「理解」を目指すことが、やっぱり今の私にとっては一番目指しやすいゴールかもしれない。

若干後ろ向きなような印象もありますが、地に足をつけて考えてみると、そんな思いに至った今日でした。


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