例の炎上ホームレス記事にまつわる感情と思考の言語化
例のアレです。もういいだろ、いつまで言ってんだよって感じなんですけど、あの炎上にまつわる感情をすべて言語化したい、それを書き留めておきたいと思ったので、noteに殴り書きます。noteに。おーいcakes見てるー?
まずこう思った。
それからこう思った。
そしてこの立ち位置にすることに決めた。
まあ、このテーマに関して差別という視点から絶対ダメだの何がよくないのとか言うのはそもそも論点がずれてるんです。ほんとに。「ホームレス 炎上」で何度かツイート検索してみたら「これが燃える意味がわからない!」「いや駄目です差別です!」みたいな次元の人ばっかで、無限アメリカ大統領選挙かよって思いました。異なるふたつの偏った視点で殴り合ってるけどそういう話じゃないんです。差別は結果なんです。じゃあなにが原因か。
面白半分に興味を持つこと自体はかなり普通なんです。治安の悪い場所について知りたい、ヤバい地区のことが気になる、廃墟に行ってみたい、自殺の名所巡りしたい、みたいな次元の話。誰でもってわけじゃないけどわりと結構みんな持ってるじゃないですか。スタンドバイミーだって死体を探しに行く話ですよ。人にはそもそもヤバいものを見たいという悪趣味な好奇心が多少なりともあって、それは趣味の悪いものだけど異常ではないんですよ。なのでそういう悪趣味な好奇心をどうやって差別から遠いものに加工していくかという話になってくるわけです。より深く知るという行為はそれを大いに手助けしてくれます。例えばドキュメンタリーを見る、本を読むといったやり方なら気軽にできます。でも一番いいのは「実際行って体験する」なんですよ。だからこそ「3年接してあれ!?」というヤバさがあるんですよね。
まあ最初は誰でもあるちょっとした悪趣味な好奇心だったんでしょう。それがどんどんエスカレートしていって、越えちゃいけないラインの越え方、悪い笑いとドン引きのライン、みたいなのが麻痺してもう何がなんだかわかんなくなっちゃったんでしょうね。それをまたcakesのアンテナ感度1くらいのバカが「わあ、文春オンラインのドキュメンタリーみたいだ!」と浅いジャッジで拾い上げてしまった。お話としてはその程度のことだと思う。
この件の根本にあるのは悪意や差別意識ではなく、主観と客観の認識のズレ、および人への解像度の低さなんです。インド人もビックリ! アフリカの黒人! みたいな低解像度で、自分のやってることはおもしろくてすごいと誤認したまま突っ込み続けた結果ああなった。まあこの程度の低解像度の人はそこそこいます。「これが燃える意味がわからない!」「いや駄目です差別です!」って騒いでる人たちも相当解像度低いじゃないですか。実際、このズレと解像度の低さが世にはびこる差別問題の多くの根幹なんでしょう。みんな人に関する解像度が低すぎる。自分自身についても。他人に対しても。
ここから先は公序良俗に反する話。
ぶっちゃけ不謹慎でも差別でもなんでもいいです面白ければ。いや悪いんですけど。いいんです。ただし越えちゃいけないラインを1歩越えるごとに最低10おもしろを乗せていかなければ胸糞悪いだけのものになる。10歩越えてるなら1000おもしろくらい乗せなきゃならないんです。1000おもしろって暴力的におもしろいですからね。まあ越えちゃいけないラインを越えるなら歩数に見合うおもしろがないと駄目ってことです。いいとか悪いとかじゃなくて。いいか悪いかで言えばライン越えてる時点で悪いに決まってるでしょ。ただ悪いおもしろさというのもあって、悪いおもしろさにはそういうバランス感覚が必要不可欠で、そのために必要なのが解像度の高さなんです。
ここ数年、現場猫ってのが流行ってるじゃないですか。知らないです気になりますという人はググってください。あれこそまさに悪いおもしろさの端的なもので、完全に不謹慎で越えちゃいけないラインを10歩越えてるのに1000おもしろい。なぜならバランスが取れてて解像度がめちゃくちゃ高いから。あそこまで来るとむしろ現場に立つ方々から率先して笑うくらいになるんです。1000おもしろければ10歩越えてても成り立つんですよ。
それにひきかえホームレスの記事のあのアレはラインを10歩越えてるにもかかわらず、主観と客観の認識のズレ、および解像度の低さのせいで3おもしろくらいしかない。だから駄目なんです。
ここからは自分自身の闇の話。
炎上でも気になるやつと気にならないやつがあります。タイツの件とかはあんまり興味が湧きませんでした。まあ興味が湧かないなりに流し読みして、ちょっと前に燃えてた献血ポスターのあれと似たやつだなと判断してそこで好奇心が0になった。
でも今回のホームレスのやつは本当に気になって昨日一日中追ってました。それはなぜか自己分析してみたらかなり邪悪なものが見えてきました。
根本的に自分、あの人らと同族なんですよ。あのホームレス記事の人たちみたいにマージン取りつつ悪趣味ぶる面があります。でも“そうじゃない側でありたい”という願望もあって、どうにかカモフラージュしようとしてて、その上であの人たちの振る舞いは同族嫌悪を焚きつけるんです。同じようなアプローチのコンテンツでも、たとえば村田らむのホームレス本やジョーブログの西成突撃YouTubeはまったく嫌悪感が湧かないんですよ。なぜなら彼らは俺らと違ってマージン取ってないから。なぜこんなにホームレスの記事の炎上が気になったか。要は「自分と同族のカスで自分より杜撰でしゃしゃったやつが死んだり死体にハエみたいな連中がたかったりしてるのを見るのが楽しい」という話です。言語化すると本当に邪悪で引きますね。
自分は清廉潔白な人間ではないし綺麗な心も持てない。悪い心がある。だからこそ、こういう自己分析をおろそかにすると、上で言った「主観と客観の認識のズレ」と「他人に対する解像度の低さ」がどんどん蓄積して致命傷になってしまう。炎上記事の人たちはそれを怠ったからああなったんです。そう考えると改めて怖い。自分の悪をフラットに見つめる視点を持ち続けていきたいと思いました。
という感じで言語化終了。
Twitter:https://twitter.com/haru_yuki_i