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桜とくず/北日本文学賞4次選考通過作品

 桜とくず(約9000字,文庫本23p相当)

――昨日旦那と別れたんでしょ? 今日うち来るよね?
 リビングにいる石本美咲は携帯電話をジーンズの尻ポケットにねじこんでから、キッチンに向かって声を上げた。
「ねえ佐々木、ちょっとちょっと」
「なにー?」
 佐々木裕二がキッチンの下から首だけを出して、それにこたえた。
「このテレビさあ、どっちが買ったんだっけ?」
「さあ、どっちだっけ?」
「なにそれ。じゃあどっちが持っていく?」
「んー、どっちでも」
 美咲の方を少しだけ見たあと、裕二はすぐにもとの作業に戻った。
「じゃあ、私がもらうね。それでいい?」
 んー、と裕二の声がキッチンで響く。
 美咲は、裕二のこういうところがずっと好きではなかった。いるならいる、いらないならいない、好きなら好き、嫌いなら嫌い。何事もはっきりさせたかったのに、いつだって裕二は曖昧な返事をした。
 二人が住む部屋は駅から少し離れる代わりに、少しだけきれいなマンションの二階。エレベーターのすぐ横。美咲は本当はもっと上の階とか、エレベーターから遠い静かな部屋とかそういうところに住みたかったけれど、美咲が仕事に行っている間に裕二がこの部屋に決めた。
 桜が一番よく見えたから、と裕二は言ったけれど、美咲はへそを曲げて一週間はおにぎりしか作らなかった。裕二は何も言わずにそれを食べ続けた。
「あのさあ、そういうとこだよ」
「え、なにが?」
「そういう煮え切らない感じ。ずっと好きじゃなかった」
 まあ、と裕二はダンボールを抱えあげて、キッチンから出てくる。
「そんな気はしてたよ」
「……あっそ。さっさと片付けてよね。奥の佐々木の部屋、私さわんないから」
「わかってるよ」
 美咲のポケットがまた震えた。
――おーい
――引っ越し中で今忙しいの、ごめんね

 切り出したのは裕二の方だった。
「美咲さん、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
 ちょうど一ヶ月前の三月三十一日の夜半、棚卸を終えてくたくたになって帰ってきた美咲はいらだっていた。
「なに? 今日疲れたから、急ぎじゃないなら明日にしてよ」
「急ぎじゃないけど」
「けど? なによ。さっさと言って」
「急ぎじゃないけど、今がいいな」
 美咲は訝しんだ。普段の裕二ならこんな事は言わない。少し睨めば大人しくなる。今日もそのはずだった。
 夜のテーブルの上はがらんとしていた。二房だけ残ったバナナだけが横たわっていて、一つはほとんど真っ黒、もう一つも黒い斑点がいくつも現れている。美咲が椅子に座りながら真っ黒なバナナに触れると、ぐにゅりという音が聞こえそうなくらいにバナナは指の形にへこんだ。
「なによ急に。見たらわかると思うけど私すごく疲れてるんだけど」
「あのね」
 裕二はシャボン玉を吹くように息を吐いた。
「あのね、もう別れようよ」
「……はあ?」
「美咲さんは僕と一緒にいて幸せ?」
「だからさあ、なによ急に」
 美咲はバナナの皮に手をかけた。昼ごはんを食べそこねた美咲にとっては、十数時間ぶりの食べ物。ふわりと甘い匂いがテーブルの上に満ちる。
「まあ、うーん、なんていうか、幸せとかそういうのはよくわかんないけど、そんな嫌じゃないとは思ってるよ」
 バナナにかぶりつきながら、美咲は裕二の胸のあたりを眺めた。シャツの隙間からうっすらと鎖骨が浮かび上がっている。はじめて出会ったときも美咲はそこばかり見ていたし、もうすっかり癖になっている。それに、美咲はひとの目を見るのが苦手だった。
「嫌じゃない? それって幸せってこと?」
「いや、うーんだからさあ、こう、なんて言えばいいんだろう。上手く言えないけど『一緒にいて嫌じゃないな』とは思ってるよ」
「じゃあさ、一緒にいなくても別にいいよね」
 横の椅子に置いておいたトートバッグの中で携帯電話が震えていることに気づいて、美咲は裕二から目を逸した。
「まあ、そう言われてしまったら、そうかもだけど……」
「美咲さんいつも言ってるじゃん、曖昧なの嫌いって」
「まあ、うーん」
「好き? 嫌い? はっきりしてよ」
「好きじゃ……ない」
 裕二が出ていったあとのキッチンで美咲はぼんやりと裕二の言葉を反芻したあと、半分ほど食べたバナナの残りをティッシュに包んでゴミ箱にゆっくりと投げた。バナナはゴミ箱の縁に当たってぐにゅりと床にぶつかった。
 
 実際のところ、美咲はどちらでもよかった。少ししつこいところはあるけれど好みの顔をした男と仲良くなりかけていたし、もっといい部屋に住んでみたいとも思っていた。あの話をしていたときに美咲の頭にあったのは「今引っ越すと、高くついちゃうんだよなあ」ということと、あとはぼんやりと「疲れたなあ」という気持ちと「この人、今日はよく喋るなあ」という感想。
 二人の過去を振り返ってみても、奇跡的な噛み合わせも、運命的な事象も、途方もなく高く聳《そび》え立つ壁も、何一つなかった。お互い友達に誘われて行った合コンでたまたま向かいの席になって、第一印象はお互いそんなによくなかったけれど話題がなさ過ぎて、美咲が苦し紛れに「水族館が好き」と言うと、裕二も「僕も水族館が好きなんです」と言葉を続けたのが初めての日のことだった。
 話の流れで後日一緒に水族館に行くことになって、そのまま流れるように付き合うことなった。それから三年程経った去年の春に二人は結婚した。この二人に運命があるならそれは、向かいの席に座ったことぐらい。
 お互いの両親も結婚することに対して何も言わなかった。似たような年収と容姿、普通の家族、次女と次男、とんとん拍子に話は進んだ。
 プロポーズの言葉は、美咲がほとんど言わせたようなものだった。夜景を見に地元で一番高い場所にある展望台に登ったときに、肘で裕二の脇腹をつん、と何度も小突いた。
 裕二は困ったように笑いながら切り出した。

 奥の部屋に裕二が消えていったあと、美咲は裕二が雑に片付けたキッチンを、ため息をつきながら整理した。
 新婚旅行で行ったどっかの観光地のどっかの有名な陶芸家の弟子が作った見た目だけは豪華な黒々とした一対の茶碗。手作りですよ、と言わんばかりにいびつな形をしていて、裕二のほうだけ少しだけ大きい。手にとって指の腹でなぞると表面はざらざらしている。
 裕二が近所の雑貨屋で買った真っ白なマグカップ。もともとは一対だったけれど、何ヶ月か前に美咲の方は美咲自身が落として割ってしまった。裕二は何も言わなかった。
 ダンボールに裕二の食器を一通り入れた後、ポケットから携帯電話を取り出して指を滑らせる。
――今日はちょっと難しいかな
 すぐにぴこんと手が震える。
――どうしても? だめ?
――これからいつでも会えるんだからいいじゃん
――そうだけどさあ
 会えないとは言うものの、美咲はこの男のこういう部分は嫌いではなかった。裕二は美咲が少しでも考える素振りをするだけで「ごめんね、やめよっか」とすぐに言う。美咲はこの男のそういうところ、突き放しても突き放しても水風船みたいに寄ってくるところを、新鮮に感じていた。
 返事を保留したままポケットに携帯電話をしまって、コンロに手をつくとぬるりとした感触が美咲の指に触れた。昨日裕二が一人で夕食を作ったときに付いた油のようだった。美咲の手のひらでサラダ油が光っている。
「ねえー! あのさあ!」
 大げさにスリッパを鳴らしながら奥の部屋に歩いていく。
「コンロ、油まみれじゃん。昨日言ったよねキッチン使うならちゃんと最後まで綺麗にしてってさあ!」
「え、できてなかった?」
「できてたらこんな怒ってないんだけど。ああもう最悪、手が油まみれ」
「ごめんね」
「あんたがさあ、離婚したいなんて言うから、出て行きたいって言うから引っ越ししてるのにさあ、もうやってらんない」
「ごめん」
「そういうの、本当もういいから」
 
 洗面所で、美咲はいつにも増して丁寧に手を洗った。手首、手の甲、指先、爪の間までこそぎ取るように、拭い去るようにハンドソープこすりつけた。
 鏡に映るまるで鬼のような自分の顔を見ながら少し言いすぎてしまったと美咲は反省した。けれど謝るほどの勇気は出てこなかった。裕二に謝る代わりに手の甲を少し強めにひっかく。
 排水口に水と泡と、数滴の血が流れていく。

 話し合い後の一ヶ月はあっという間に過ぎた。両親への報告、身の回りの整理、それらを済ませた昨日、美咲が役所に離婚届も提出してきた。
 美咲は家を出る前に「二人で一緒に提出に行こう」と裕二を誘ったけれど、裕二は「なんか悲しくなるから、美咲さんが行ってきて」と譲らなかった。
 離婚届を提出したあと、美咲は心の澱《おり》みたいなものが晴れていくような気がして、役所を飛び出した勢いのまま親友の沙織を誘って、意気揚々とランチに出かけた。

「それではとりあえず、乾杯」
「乾杯」
 二人は赤ワインの入ったグラスをかちゃりと鳴らした。
「こういうときってさ、なんて言えばいいんだろ。おめでとう? ご愁傷様?」
「ちょっとやめてよご愁傷様なんて。おめでとうでいいよ」
 前菜のサラダにフォークを突き立てながら、美咲は口を隠して笑った。
「いやあでも、美咲が離婚するとはねえ」
「そう? そんなふうに見えてた?」
「そうだよ、うまくいってたように見えてたもん」
「それはちょっと違うなあ。別に今だってうまくいってないわけじゃないよ。ああ、あれあれ、円満離婚ってやつよ」
 美咲は少しだけ、鼻を鳴らした。
「……ふうん、それで離婚の話はどっちが言い出したの」
「私じゃないよ、旦那の方」
「こんなこと聞くのもあれだけどさ、旦那さん浮気とかしてたんじゃないの?」
 美咲は思わず吹き出した。
「それはない、ないない絶対ない」
「言い切れるの?」
「そんなことあるわけないじゃん、うちの旦那よ? 無理無理絶対ない」
「ならいいけどさ、じゃあなんで離婚なんて言い出したんだろうね」
 沙織は皿の上のコーンを一粒ずつ丁寧にフォークで突き刺す。
「だからさっき電話で言ったじゃん、性格の不一致よ」
「美咲はさあ」
 沙織は美咲の言葉を遮った。
「旦那さんのこと、好きだったの?」
「え?」
「好きだったの?」
 美咲がワインを口に運びながら目を泳がせていると、ウエイターがメインのラザニアを運んできた。
「それさあ、旦那にも言われた」
「なんて答えたの?」
「『嫌いじゃないよ』って言った」
「……ふうん」
 ラザニアを舌に乗せた美咲は、思っていたよりも塩気が強すぎて顔をしかめた。
「私さあ、円満離婚なんて言葉信じてないのね。だってさ、円満なら離婚なんてするわけないじゃん」
「でも、ほらほら、ここにいるよ」
「美咲が思ってるだけだよ」
 いやまあ、と沙織は自分で自分の言葉を遮った。
「私にはそう見えてるってだけの話だけどね」
 ラザニアの塩気は水を飲んでも、ワインを飲んでも、美咲の口の中から消えてはいかなかった。

 美咲は結婚してからも、裕二のことをずっと佐々木と呼んでいた。改まって下の名前で呼ぶのも恥ずかしかったし、なにより面倒に思っていた。
 付き合いたてのはじめてのデートで、お互いの名前をどう呼ぶか話し合ったとき「佐々木は佐々木だもんね」と美咲が冗談まじりに言うと、裕二はその先何回も美咲に見せることになるへんな笑顔を作って「そうだねえ」と笑った。
 
「佐々木ー、お昼にしようよ」
 美咲は手の甲に絆創膏を貼りながら、奥の部屋にいる裕二を呼んだ。決して謝ったりはしないけれど、いつもより少し明るい声を出した。
「もうそんな時間なんだね」
「そうだよ、お昼なににする?」
「おそばにしようよ」
 裕二はギターのボディを丁寧にクロスでこすってから、ケースにしまった。
「また? いっつもおそばじゃん」
 美咲は少しだけ笑ってみせた。
「今日みたいな日は、いつもと同じがいい」
 裕二も笑ってみせた。

 お湯を沸かす美咲の額には汗がにじんでいった。美咲がコンロそばの窓を開けると、湿気と花の匂いが混じった風がキッチンを、テーブルを駆け抜けていく。
「あ、ごめん。そういえば出汁がないや」
 ぐつらぐつら音を立てては、泡が消えていく。美咲はそんな泡を菜箸でつついては消しながら、テーブルの方を振り向いた。
「めんつゆならあるから、今日は――」
 今日は、もなにもこれが最後ということに気づいて、美咲は一度口を噤んだ。
「佐々木の好きなあったかいやつできないから、冷たいそばでもいい?」
「なんでもいいよ」
「またそれだ。それやめてって言ったじゃん」
 少しだけわざとらしく音を立てながら、美咲はステンレスのざるを流しに放り投げた。
「ごめん」
「いや、謝るんじゃなくてさ」
「本当はね、冷たいそばのが好きなんだ」
 湧き上がったお湯が、勢いよく鍋から流れ出した。

 ――ねえー! 聞いてるー?
 ――だからあ、今日は忙しいんだって

「案外冷たいそばもおいしいね」
 机の下でこっそり携帯電話を操作してから、美咲は少しだけ目を上げて、裕二の鎖骨に目をやった。
「今日はあったかいからねえ。冷たくておいしいね」
 へんな笑顔で裕二はにこりとした。
「でもさあ」
 なんで今更そんな事言うの? と美咲は続けようとした。けれど、寸前のところでそばをすすった。
「でも? なに?」
「佐々木はさあ、私のこと好きだった?」
「好きだったよ」
 裕二は即答した。
「そっかあ」
 美咲は、ずるずる音を立てながらそばをすすった。めんつゆが跳ねて頬に、瞳に当たる。
「私にはそう見えてなかったんだけどな」
「え?」
「ずっと不安だったよ」
 少しだけ冷たい風がカーテンを揺らす。ぱたぱたと音を立てる。
「いつかさあ、いつか佐々木が変わってくれるんじゃないかなって、ずっと思ってたよ。ずっと佐々木のことがよくわかんなかったよ」
 ぱたぱたとカーテンは鳴り続ける。
「なんでさあ、冷たいそばが好きってこと今まで黙ってたの?」
「ごめん」
 怒らないつもりでいた美咲も、我慢できずに箸をテーブルに叩きつけた。空気が、器が、めんつゆが、ふるふると揺れる。風が美咲の髪を流す。
「ごめんじゃなくてさ、なんで今なの? なんで今言うの? もっと早く言ってよ。私ばかみたいじゃん。佐々木があったかいそばの方が好きだと思ってたから、今日の今日まで毎週毎週あったかいそば作ってたんだよ!」
「それは……」裕二がなにか言おうとしたけれど、美咲はやめなかった。
「それかさあ、言わなきゃいいじゃん最後まで! 黙ってればよかったじゃん! 佐々木は私をどうしたいの? どうしたかったの? そんなこと今更言われたって、もうどうしようもないじゃん!」
「……ごめん」
「そういうところも! そういうところもだよ! いつだってすぐ謝って済ませようとする!」
 わんわんと美咲は泣いた。
 窓が開けっ放しなんてことも忘れて、わんわんと美咲は泣いた。

「佐々木がさあ、いっつもなんにも言わずにあったかいそば食べてくれてたからさあ、全然気づかなかったよ」
 ひとしきり泣ききって、両手のティッシュペーパーにほとんど顔を埋めながら美咲はこもった声で言った。
「言えなかったんだ」
 裕二は零すような声で言った。
「……なんで?」
「美咲さんが、あったかいそばが好きなんだと思ってたから。そんなことで困らせたらだめだと思ってた」
「そっかあ」
 美咲は顔を上げて思いっきり鼻をかんだ。頬も鼻も、もう涙か鼻水かもわからない透明な液体でぐしゃぐしゃになっている。
「実はねえ、私も冷たいそばの方が好き」
「そうだったんだね」
「でも、佐々木がいっつもにこにこして食べるから言えなかった」
 めんつゆの中に残っていたそばの切れ端はすっかり汁を吸い込んでぶよぶよになっている。
「あと」美咲は大きく息を吸い込んで、止めて、一気に吐いた。
「水族館もそんなに好きじゃ、ない」
「そっか」
「本当は動物園の方が好きだし、ペアの食器とかも好きじゃなかった」
「そんなことにも気づかなくて、ごめんね。旦那失格だった」
「いいよやめて、謝らないで。謝られると私の方が悪い人間みたいな気がしてくるから」
「実はね」
「なに?」
 美咲は顔を上げて、そばの最後の一本を口に入れた。
「僕も水族館あんまり好きじゃないんだ。ちょっと好きってくらい」
「なにそれ。だからさあ、なんでさあ、なんでそれ、今言うのさ」
 わんわんと美咲は笑った。
 わんわんと裕二も笑った。

 思いっきり笑ったあと、美咲がぽつりと言った。
「もっと早く気付けばよかったね」
 うん、と裕二も頷いた。
「本当だよね、なんでこんなことになるまで気づかなかったんだろうね」
「言えなかったもん」
「なんで?」
 今までの裕二なら「なんで?」なんて言わなかった。美咲はそれがおかしくて、思わずへんな笑い声をあげた。
「今日はなんか佐々木、よくしゃべるね」
「肩の荷が降りたからかな?」
「あ、なにそれ。それも私のせいなの?」
 美咲はテーブルの上の裕二の左手をぽん、とはたいた。
「どうだろうねえ、たださあ」と裕二はそれを握り返した。
「本当は名前で呼んで欲しかったなあ」

 キッチンにじゃぶじゃぶと水の音が溢れた。食器洗いの手伝いなんて今まで一回も言い出したことがなかった裕二が「今日くらい僕がやるよ」なんて言うので、美咲は手持ち無沙汰そうに座ったまま、ただただカーテンが揺れているリビングの方を見ている。
「珍しいね、佐々木が手伝うなんて言うの」
「そうなの?」
「うん、いっつも全然手伝ってくれなかったじゃん」
 キッチンの真向かいにあるリビングからはうすい色をした桜の花がよく見える。美咲は振り向きもせずにうすく目を開けて、桜を見ながら裕二の答えを待った。
「美咲さんってさあ、家事とか料理とか好きなんだとずっと思ってたよ」
 美咲は思わず吹き出して、勢いよく振り返った。
「はあ? そんなわけないじゃん」
「でも、そう見えてたんだよ」
 食器を洗う手を止めて、裕二は顔を上げた。
「結婚したての頃、僕が手伝うって言ったらすごく嫌そうな顔してた」
 裕二は少しだけ口角を上げた。ぱたぱたとカーテンが鳴る。
「そうだったかもね」
 美咲は頬を緩めて、またリビングに目をやった。

 それからの二人は息がぴったり合って、予定より早い夕方の入り口くらいで作業は殆ど終わった。裕二の物は一つ残らずすっかりダンボールに収まっていて、ただじっと運ばれるのを待っている。
 朝に比べて物が半分減ったリビングのソファで二人は久しぶりに隣り合わせに座った。
「結構早く終わったね」
 裕二が先に口を開いた。
「ね」
「夫婦最後の共同作業だったね」
「ね」
 あのさあ、と美咲は続けた。
「本当はこの部屋、嫌いじゃなかったよ。私桜好きだし」
「え、そうなんだ。美咲さんはいじわるだねえ」
「私になんにも言わないで決められたのが嫌だっただけ」
 そっか、と裕二は頬をかいた。
「今こんな事言っても説得力ないかもだけど、例えばこの先十回くらい生まれ変わるとするじゃん」
「うん」
「そしたら私、十回ともなぜか佐々木と結婚すると思う」
「ずいぶん高評価なんだね」
「んーどうだろ、そうなのかな。わかんないけど、なんかそんな気がする。っていうか今、した。それでさあ、六回は離婚すると思うのね」
「残りの四回は?」
「さあ? たぶん幸せに暮らすんじゃない? それか死ぬまでお互い猫かぶったまま過ごしてるか」
「僕はそう思わないなあ」
「じゃあなんだっていうのさ」
 美咲は展望台でしたのと同じように裕二の脇腹をつん、と肘でつついた。
「離婚は五回だと思うよ、僕はね」
「あ、自分だけちょっと回数増やしていい人アピールずるい」
「そうじゃなくて、今世はただ悪い方引いちゃったねってこと」
「あーたしかに。結局子供もできなかったもんね」
「あと、結婚式も大雨だったもんね。美咲さんの友達の沙織さんだっけ? ずぶ濡れで式に参列してくれてたね」
「あったあった。本当申し訳ないけどあれは笑っちゃったね」
 二人は顔を見合わせた。
「これはさ、全然関係ないかもしれないけど、二人ともストーブの火、一回でつけられたことなかったよねえ。いろいろあったなあ」
「あ、そういえばあれどこやったの?」
「うーん捨てちゃったかも、欲しかった?」
「ううん、いいや」
「そっか」
 消えるのはあっという間だったのにね、とは美咲は言わなかった。

 夜になると昼間の陽気はすっかり消えて、ドアを開けると玄関にはどこかの家の灯油の匂いが漂った。
「明日の朝業者が荷物取りに来ると思うから、よろしくね」
「うん」
「今まで本当にありがとう。じゃあね」
 一言ずつ噛みしめるように言って踵を返した裕二の二の腕を、美咲はつまむように引っ張った。
「ねえ、明日からどこに住むの?」
 美咲は、できるだけ細い声で言った。後ろ髪を引っ張らないように、負け惜しみに聞こえないように、できるだけ細い声で。
「それって、言わなきゃだめ?」
 裕二は振り返って、いつものへんな笑顔で美咲を見た。
「そう、だよね。聞かなかったことにして」
「うん、またね」
「またどっかで会えたらいいね」
「うん、じゃあまた来世で」
 隣の住人が帰ってきたのか、エレベーターの動く音が廊下に響く。
「よーし、それじゃあ『せーの』で一緒にドア閉めようよ」
 裕二は少し早口で、少し嬉しそうに言った。
「いいね、そうしよっか。じゃあ」
 せーの。
 へんな笑顔のままの裕二と、苦しそうな笑顔の美咲は、ゆっくりとドアを閉めた。
 
 ――もうさすがに引っ越し終わったでしょ? 会いに行くのならいい?
 ――だめだよ、今日はそっとしといて
 ――ちょっとくらいいいじゃん? 嫌いなん?
 ――ああもううっさいな。ばーか、二度と連絡してくんな

 裕二が座っていた場所だけがまだ少しだけへこんでいるソファに携帯電話を放り投げて、美咲は開けっ放しの窓に向かった。窓のさんに引っ掛かった花びらを一枚すくい上げる。頬にはティッシュの白いくずがひっついたまま。
 窓の向こうに男の影があった。裕二と同じくらいの背、同じくらいの細さ。裕二は歩くのがすごく遅いから、もしかしたらあれは裕二ではないのかもしれないと美咲は思った。
 けれど、街灯に照らされる男の姿はまるで枝からはなれたばかりの花びらのように軽やかで、どこか美しくて、美咲は悔しさすら覚えた。
 美咲が手のひらにふうっと息をかける。花びらはするりと手のひらを離れて、その影の方に嬉しそうに消えていった。

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