超短編小説(原稿用紙5枚)「私はツツジ」

ファイルを整理してたら、だいぶ前に書いた短編が出てきた。

賞にも落ちちゃったやつだし供養も兼ねて。5分もあれば読めると思います。

それではどうぞ↓


 青白い光に向かって芽生(めい)はつぶやく。
「おやすみなさい」
 ひとりきりの部屋に、青白い携帯電話の光だけがきらきらしている。
 はっきりとは覚えてないけれど、しっかり眠るためのおまじないのつもりで、眠れない夜はこうしてつぶやくようになった。
 別に誰かにきいてほしいわけじゃないのに、そうやってつぶやいた次の朝はきまって、なによりも先に携帯電話を確認する。
 いままで一度も、誰からも、返事があったわけじゃないのに。

 私はとくに絵が上手とか、とびきりかわいいとか、おしゃれさんであるとか、とにかくこの身から、なにか「うつくしいもの」を発してるとは思ってないし、きっともういちど母のお腹に戻って生まれなおしたとしても、かわらない気がしてる。
 だから広い広いこの世界のはしっこでこんな私が眠る前のあいさつをしたところで、誰にも見向きされないのも、仕方ないのだ。 
  
 ただ、この身から「うつくしいもの」が発せなくても、うつくしいものをうつくしいと思う気持ちはちゃんと母のお腹から拾ってきたので、私は東京に来てから毎年、5月にだけカメラを抱えるようにしている。ちょうど近くの公園のツツジがとてもきれいに咲くのだ。
 
 ずっとむかしに、母が私に、名前の由来を教えてくれたことがあった。
「芽生が生まれたときにね、ツツジの花が窓から見えたの。だからね、今はまだ生まれたばかりの芽でも、いつかこの子もこんな花みたいな子になってほしいなって思って芽生って名付けたのよ」
 東京にきてからもう三年と一ヶ月、少しは私も、ツツジの花みたいになれたかな。
 
 三年目にもなると仕事にもだいぶ慣れてきて、休みの日を満喫するくらいの余裕が出てきたので、日曜日に、今年はしっかり一日かけて綺麗なツツジを撮ろうと意気込んで家を出た。
 そうしてなんとか、満足のいく写真が撮れた。薄い桃色がかった一輪のツツジ。今までで一番上手く撮れたツツジ。
 
 家に帰ってからも私は嬉しくてたまらなかった、誰かにみせたい、みせたくてたまらない。
 けれど私には今、このツツジが撮れたことを一緒に喜んで、一緒にみてくれる人が、いない。古い携帯電話しかもっていない母には手紙を添えて送るとしても、今すぐには伝えられない。
 そう思うとひどくかなしい気分になっていった。私にはいない、この気持ちをわかってくれる人がいない。少しきれいなツツジを撮れただけなのにこんなにも嬉しい気持ちをもってしまったことが、おかしくて、おかしてくて、私は笑いながら泣いてしまった。
 
 ひとしきり泣きはらすと、こんどは一日の疲れがどっとでてきた。きれいなツツジを撮れたときは興奮して疲れなんて忘れていたけど、一日中しゃがんだまま写真を撮ったので、体中がいたくてたまらない。
 明日は月曜日、だ。さっさとシャワーをあびると私はベッドにとけるように潜り込んだ。
 けれど、こんなにも疲れているのに眠れない、胸から落ちていくような感覚がまったく襲ってこない。
 わたしはいつものおまじないをすることにした、青白い携帯電話に向かってつぶやく。
 すると、さっきまでの気持ちがまた心にぷかりとうかぶ「こんなことしても、誰もみていないのに」そうだ、こんなことも今日で最後にしよう。
 おやすみの挨拶にツツジの写真を添えてつぶやくと、私は携帯電話からツツジの写真を消した。すると、心からおもりが外れたみたいに、胸から落ちていくみたいに、私は深い眠りにとけていった。

 その日の朝は、いつもとちがう音で目覚めた。携帯電話の音なのだけれど、目覚ましの音ではない。おそるおそる携帯電話をのぞくと、見慣れない一言がうかんでいた。
「きれいなツツジですね、おやすみなさい」
 どこのだれかもわからないけど、誰かが私のつぶやきに返事をくれていた。この広い広い世界で、なにかのきっかけで、誰かが私を見つけてくれたのだ。
 こんどは昨日までの悲しい気持ちを持ってしまったことが、おかしくて、うれしくて、私はしばらく笑みがとまらなかった。
 お母さん、東京のツツジも、きれいだよ。
 


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