「不自由展」を巡る問題を考える
こんにちは。初めてのnote投稿になります。大学のゼミみたいなものでちょっとした論考を書いたのですが、せっかくなのでnoteでも投下しようかなと思い、アレンジしたものを以下にアップしました。「表現の不自由展・その後」を巡る問題についてです。昨日、大村氏と津田氏がお互いを批判している記事が出されるなど、まだまだこの問題は収束しそうにありません。拙い文章ですが、最後まで読んでいただければ幸いです。それでは早速どうぞ。
1. 「不自由展」騒動の概要
①「あいちトリエンナーレ」(以下「あいトレ」):
2010年から3年ごとに開催されている国際芸術祭です。実行委員会会長は愛知県知事の大村氏が務めており、事務局は愛知県県民文化局に置かれています。17年7月、実行委員会はジャーナリストの津田大介氏を芸術監督に選任しました。
②「不自由展」:
まず「表現の不自由展」は、美術評論家や編集者ら有志でつくる実行委員会が2015年に企画した展覧会であり、政治色が強いなどの批判を受け、かつて公立美術館から撤去・公開中止になったりした芸術作品が展示されました。今回の「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展」)は、2015年以降新たに規制された作品を加えたもので、「あいトレ2019」の企画展の一つとして愛知県美術館で開催されました。これは、津田氏が18年5月以降のキュレーター会議で「不自由展」を企画に入れることを強く提案したことに端を発します。
問題となったのは、企画のなかに、慰安婦像である「平和の少女像」(作:キム・ソギョン/ウンソン夫妻)[図1]や、映像作品「遠近を抱えて PartⅡ」(作:大浦信行)[図2]のなかにあった、昭和天皇の御影をバーナーで燃やし、その灰を靴で踏みつける表現が含まれていたことで、官民問わず多くの国民から抗議が寄せられ(注1) 、開催からわずか3日で企画展の一時中止が発表されました。
[図1]「平和の少女像」
[図2]「遠近を抱えて PartⅡ」(昭和天皇に該当する部分)
その後19年9月には、文化庁が補助金審査の結果として、補助金の全額不交付を決定しましたが、これについても是非を巡り活発な議論が交わされました。最後に、一連の騒動をまとめた表[図3]を載せておきます。
[図3]「不自由展」をめぐる騒動(筆者作成)
(注1)あいトレ実行委員会事務局と県庁が受けた抗議は、8月1日〜31日の間で、合計10,379件(うち電話が3,936件、メールが6,050件、FAXが393件)。
2. 「不自由展」問題の論点
ここでは、次の5つの論点を提示したうえで、それぞれについて考えていきたいと思います。
【論点】
①公共性と展示内容
②補助金不交付の決定
③「表現の自由」と「芸術」
④芸術監督としての津田氏の「資質」
⑤引き起こされた連鎖反応
論点① 公共性と展示内容:
先述の通り、実行委員会会長は大村知事がつとめ、事務局は愛知県県民文化局に置かれるなど、あいトレは公共性が高い芸術祭です。 「不自由展」で展示された慰安婦像は、在韓日本大使館の前に設置され外交問題化したもののレプリカであり、極めて政治色が強いことは疑いの余地がありません 。今なお問題が解決していないなかでの、公金支出を活用した公立美術館での慰安婦像の展示は、愛知県や文化庁が韓国政府の主張を支持するという誤ったメッセージを与えかねず、不適切ではないでしょうか(注3)。慰安婦像しかり昭和天皇の作品しかり、これらを「芸術」の名を借りた事実上の政治プロパガンダと考えるのは、ごく自然な感覚だと思います。この点については、検証委員会が公表した中間報告書も
あいトレの期待水準に達しない、また「芸術の名を借りた政治プロパガンダ」と批判される展示をみとめてしまった
ソウルの日本大使館前の像など政治プロパガンダに使われた現実があり、十分な説明がないままに見せると誤解はもとより理解不足による批判をびることは必至だった
政治的テーマだから『県立や市立の施設を会場としたい』という芸術監督と不自由展実行委員会のこだわりは、公立施設が想定する使用目的から逸脱している
などと手厳しく批判しています。
この点について、津田氏は
従軍慰安婦となった方々の名誉と尊厳を深く傷つけ、耐えがたい苦痛を与えてしまったことについては、日本政府としても心からお詫びと反省の気持ちを表明しています。したがって《平和の少女像》は、日本政府の歴史認識を超えた歴史観を僕たちに押しつけるものではなく、そのような過去を反省し、未来に向けて立派に生きていくことを誓った僕たち日本人を貶めるものではないと考えます。(筆者注:一部省略)
とのコメントを発表していますが、これは論点ずらしの感が否めません。要するに、津田氏は慰安婦像などの問題を「日本人を貶めるものかどうか」という議論に終始させようとしているわけですが、問題の本質はそこではなく、この展示が事実上「公的」なものであるということなのです。この観点から考えると、明らかに、今回の展示内容は不適切であると言えるでしょう。
(注3)実際に韓国政府も、8月5日に文化体育観光部が「愛知県で我々の『平和の少女像』展示を中止した残念な状況が生じている」と遺憾の意を表明しました。
論点② 補助金不交付の決定:
次に、補助金不交付を巡る議論についても整理したいと思います。これは論点①の議論と混同されることも多いため、両者を区別して論じねばならないことに注意が必要です。まず「文化資源活用推進事業」における補助金交付までの流れは[図4]の通りであるという断りを入れた上で、補助金不交付決定に至るまでの経緯を説明します。「あいトレ」は文化庁の補助事業として4月26日に「採択」(内定)されていましたが、審査時点では具体的な展示内容の記載はなく、文科省は「不自由展」を「あいトレ」開催後に事後報告で受けたため、補助金交付の見直しが検討されることとなり、その結果、9月26日、文化庁は補助金の全額不交付を決定しました。理由については文化庁HPで以下のように述べられています。
愛知県は、展覧会の開催に当たり、来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した上、補助金交付申請書を提出し、その後の審査段階においても、文化庁から問合せを受けるまでそれらの事実を申告しませんでした。これにより、審査の視点において重要な点である、
[1]実現可能な内容になっているか
[2]事業の継続が見込まれるか
の2点において、文化庁として適正な審査を行うことができませんでした。 かかる行為は、補助事業の申請手続において、不適当な行為であったと評価しました。 また、「文化資源活用推進事業」では、申請された事業は事業全体として審査するものであり、さらに、当該事業については、申請金額も同事業全体として不可分一体な申請がなされています。これらを総合的に判断し、補助金適正化法第6条等により補助金は全額不交付とします。
決定に対し津田氏は「事後的に交付決定を覆されたら、企画内容に強烈な自粛効果が生まれる。事後検閲的な効果が強いという点でも、手続き論的にも問題の多い決定」と反発しました。
[図4]補助金交付までの流れ(文化庁HPより)
本論点を考える上では、この決定は「手続き論」的な文脈で発表されているということをまず理解したいです。つまり、少なくとも建前上では「昭和天皇の御影を焼却した映像作品や慰安婦像など、公的に展示するのにふさわしくない作品が含まれているから不交付」というわけではないということとです。ここで2つの問題点を提示しようと思います。
一つ目に、採択された事業が手続上の瑕疵が理由で全額不交付となった前例はないという点です。仮に手続きが不十分であった点を認めるにしても、果たして全額不交付の措置は適当でしょうか。あいトレの企画「国際現代美術展」には、66組のアーティスト・団体の作品が展示されており、「不自由展」はその一角に過ぎません。全額不交付ではなく一部不交付なら、まだ理解できる決定となったはずです。
二つ目に、「建前と本音」の問題について。文化庁は、決定には政治的な判断は介在せず、あくまで手続き上の瑕疵という観点からの判断であると主張していますが、果たしてこのような措置が本当に官僚独自で決定されたかについては、疑義を呈されても仕方のないように思われます。「本音」はやはり、特定の作品の展示を問題視した上での判断ではないでしょうか。ただ、作品を問題として不交付の決定を行えば、それこそ「事後検閲」との批判が浴びせられるのは必至であり、苦し紛れの判断として手続き的問題を持ち出したと考えられます。では、「採択」決定をそもそもしなければよかったのではないか、と思う人もいるかもしれませんが、先述の通り、申請時には「不自由展」の展示の記載はなかったのです。「申請時とは展示内容が変更になる場合は往々にしてある」と指摘する評論家もいますが、実行委内では前々から「不自由展」は既定路線であり、津田氏がこれを意図的に隠して申請した可能性や、制度の穴を利用して申請した可能性は低くはないでしょう。
いずれにせよ、今回の文化庁の決定は適切とは言い難いものです。たしかに展示内容は不適切でしたが、それとこれとは切り離して議論する必要があるため、問題が複雑化しているのです。そして、このような問題を引き起こした芸術監督の津田氏は、相当な「確信犯」でしょう(津田氏については論点④でも触れます)。
論点③ 「表現の自由」と「芸術」:
今般展示された「芸術」の多くは左派的な主張を多分に含むものであり、特に昭和天皇の御影を焼却した作品を「公的に」展示したことについて、展示反対派は一様に批判しています。天皇は憲法第1条に定める通り、日本国及び日本国民統合の象徴であるゆえ、私はこの批判は最もだと考えますが、それ以前に、そもそも人の肖像写真を燃やすような作品は「芸術」といえるのであろうか、ということに思いを馳せる必要があると思っています。例えば、自分の親、兄弟、親しい友人の写真が燃やされていることを想像してみてください。不快感を抱かない人は恐らくほとんどいないでしょう。この論点においては、もはや公的展示でも私設展覧会でも関係なく許容されるべきでないと個人的には思います。こうした「想像力」や「共感」が、残念なことに津田氏をはじめとする左派の人々には著しく欠けており、人々の常識的な感覚とはかけ離れていると言わざるを得ないのです。
その証拠に、産経新聞社とFNNの合同世論調査(10月14日実施)によると、今回問題となった作品が、展示されるべきアートだと「思わない」とした回答が64.0%に上り、「思う」とした23.9%を大きく上回りました。また、文化庁による補助金不交付の決定に関するJNN世論調査(10月5,6日実施)でも、「適切だった」が46%で、「不適切だった」の31%を上回りました。さらに中間報告書にも、公立美術館での展示開催について「ジャーナリストの関心としては理解できるが、トリエンナーレの主旨や芸術監督に期待される役割に照らし、県民からたちどころに十分な理解を得られるとは思わない」との言及があります。
ただもちろん、民意が判断の根拠になるということを主張したいわけではありません。補助金不交付の判断をめぐる議論は専門性を要します。また、中間報告書には
単に多くの人々にとって不快だということは、展示を否定する理由にはならない。芸術作品も含め、表現は、人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがあるのであり、それこそ表現の自由が重要な理由(である)
とも記載されています。これについては、たしかに「表現の自由」は憲法第21条に規定されており 、最大限保障されるべき重要な基本的人権であることは疑う余地がありませんが、報告書は問題をあえて一般化しすり替えようとしていると言わざるを得ません。昭和天皇の御影を焼却する作品は、果たして「人々が目を背けたいと思う」事実とやらに何か「切り込」んでいるのでしょうか。作者本人は、「一部だけ切り取ってみると昭和天皇の肖像が燃えているように見えるが、正確には、富山県美術館によって《遠近を抱えて》の図録が焼却された経験を元に自分のアイデンティティの葛藤を燃やしている作品である」と主張していますが、単に自ら政治的主張を作品に組み込んだだけと捉えるのが大多数の鑑賞者の「普通の」感覚でしょう。そもそも芸術作品は、作者の意図した通り一義的に解釈されるとは限らないのです。もし背景や意図を汲むように鑑賞者に求めるのであれば、そのような措置がしっかりと取られて然るべきでしたが、そのようなキュレーションも不十分でした 。いずれにせよ、「芸術」に対し、出展した芸術家と一般の人々との間で、認識に小さくはない隔たりがあることが浮き彫りになったことは間違いありません。
論点④ 芸術監督としての津田氏の「資質」:
津田氏の言動などを見るに、この「不自由展」はある種、「人災」の側面があるのではないだろうかということを指摘したいと思います。4月8日のニコニコ生放送の番組で、「あいトレ」企画アドバイザー・東浩紀氏との対談企画が放送されましたが、その際に次のようなやり取りがなされました。
津田「これ(不自由展)が一番やばい企画になるんですよ、おそらく。政治的には。」
東 「やっぱり、天皇が燃えたりしてるんですか?」
津田「あーー(深く頷く)(笑)」
東 「天皇制にはどんなお考えですか?」
津田「天皇というのがひとつタブーになってて撤去されるという事例があって、(略)それはこの展覧会でもモチーフになる可能性は…あります」
東 「えー!こんな令和で、めでたいときに!?」
津田「令和の今だからこそ、違った意味を感じ取れると思うんですよね」
東 「人々は新しい元号で前向きな気持ちになっているときに、税金でそういう…」
津田「2代前になると人々の記憶もあまり…なんか歴史上の人物かな?(笑)みたいな、っていうような捉え方もできるかもしれない」
このように、「不自由展」が「炎上」する企画になるということを津田氏は事前に予見しており、すると当然、「この芸術作品の何が『芸術』なのか」といった疑問・クレームが発生することは予想範囲内であるはずです。公的な芸術祭である以上、それらの疑問に答える必要もあるでしょう。そうであるのに、反論が「表現の自由の絶対性」を主張する一点張りでは、人々の理解を得るのは難しいです。この疑問に対する応答がしっかりと考えられていれば、議論がより深まったのではないでしょうか。
また、津田氏は
今回のことは日本が自国の現在または過去の負の側面に言及する表現が安全に行えない社会となっていることが内外に示されてしまった出来事である
とのコメントも出していますが、これも問題の核心ではありません。もちろん、暴力や脅迫はあってはならないというのは津田氏に全面的に賛同しますが、慰安婦像などについては、「表現の自由」云々ではなく、論点①でも述べたように、公的機関で公的支出を利用したということが問題なのです。民間の美術館では展示することであるなら、このように政治問題化することはなかったでしょう。報告書が指摘するように、津田氏らは公立美術館での展示に強いこだわりを持っており、ジャーナリストとしてのエゴを優先させてしまった結果、このような騒動が起きてしまったのです。さらに、結果論にはなってしまいますが、本人の「覚悟」の不十分さ、予想される結果についての見通しの甘さにより、予期しない連鎖反応まで生み出されてしまいました(論点⑤参照)。津田氏の責任は非常に大きいと言えます。
論点⑤ 引き起こされた「連鎖反応」:
最後に、今回の「不自由展」により、2つの予期しない「連鎖反応」が発生してしまったことを紹介しましょう。一つ目は、「日本人のための芸術祭 あいちトリカエナハーレ2019 『表現の自由展』」です。これは、10月27日に「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の元会長が党首を務める政治団体が、愛知県施設の「ウィルあいち」で開催した展示会であり、県は施設の使用を許可していた。なかには「犯罪はいつも朝鮮人」と書かれたカルタの読み札など、在日朝鮮人への憎悪をあおる内容の展示もあったとされています。29日の会見で大村知事は同展示について、「明確にヘイトに当たるのではないかと思います。その時点で中止を指示すべきだった」と発言し、法的手段も含めて検討していく考えを示しました。
注目すべきことは3つあります。一つ目は、差別的な展示内容について。展示にはいわゆる「ヘイトスピーチ」に含まれるものもあり、これらを芸術と言うことは、一般的な感覚としてあり得ないでしょう。ただ、日本にはヘイトスピーチを”取り締まる”法律は存在しない ため、その穴を突かれた形になります。二つ目は、この企画展に公的な支出は払われていないという点、三つ目は、「不自由展」を擁護していた多くの「リベラル」派知識人の多くが、「トリカエナハーレ」を攻撃の対象としたことです。以上3点から私が指摘したいことは次のようなことです。まず前提として、「トリカエナハーレ」の展示はヘイトスピーチであり、擁護の余地はないということは強調しておかねばなりません。しかしながら、「不自由展」擁護論者が「トリカエナハーレ」を批判するのは二重基準であると言われても仕方がないことではないでしょうか。昭和天皇の御影を焼却する作品は「芸術」であると擁護する一方で、「トリカエナハーレ」の展示を憎悪表現と断罪している 、「リベラル」を自負する言論人は、一般的な感覚からは乖離していると指摘せざるを得ません。結局、自らの政治的なイデオロギーが先行しているため、先述した世論調査にもあるように、人々からの共感を得ることができなかったのではないでしょうか。いずれにせよこの一件は、「表現の自由」で「火遊び」をすると、結果として差別団体などにより「表現の自由」が脅かされることもある、ということを示す格好の例となってしまいました。
二つ目の連鎖反応は、札幌市で12月21日の一日限りで開催された「北海道・表現の自由と不自由展2019」です。これは、「不自由展」中止を問題と考えた北海道民有志らでつくる実行委員会により企画された私設展覧会です。問題となったのは、東条元首相や菅官房長官、河村名古屋市長などの写真を焼却するような映像作品が展示されていたということであり、当該部分はインターネット上で拡散されています 。もはやこれは「芸術」ではないということは言うまでもないでしょう。ここからも、出展者及び運営側は、「芸術」を、自らの政治的主張を発露させるための道具くらいにしか考えていないということが窺えます。右派も左派も関係ありません。彼らは、「表現の自由」の価値を自ら貶めていることになぜ気づけないのでしょうか。このように、「不自由展」は、思わぬ形で残念な連鎖反応を生んでしまったのです。
3. 終わりに
以上、「不自由展」問題について、いくつかの論点に細分化して考えてきました。このように詳しく問題を検討すると、インターネット上の言説の多数を占める「反日vs愛国」「左派vs右派」といったような二項対立の問題ではないということはすぐに理解できるでしょう。そのような議論は問題の本質を矮小化させてしまいます。事実に基づき、複数の論点を混ぜることなく建設的な議論が引き続きなされることを期待したいです。