書くということ
こんばんは。HaruSuと申します。
少し前に出版されたものですが『夢を売る男』という本をご存じでしょうか。永遠の0などの著者である百田尚樹さんの作品です。
自費出版の編集者が主人公の小説で、当時出版社に勤めていたこともあり、色々と考えさせられる内容でした。正直、結構リアルです。
中に「日本語はネット上で最も多く使われている言語」という主旨の一文がありました。英語でも中国語でもスペイン語でもロシア語でもなく、日本語が?!と印象に残っています。日本が識字率が高く、国内で統一された言語を使用しているからだというような話もあったように記憶しています。
一万文字くらいまでは迷わずに書ける人間は多いものの、本を一冊書けるような人間は変態…当時の役員の一人が言っていた気がします。
確かに後世に名の残る物書きは、奇人変人が目立ちます。一冊にまとまるほどの文章量を書きあげるエネルギーは常人には計り知れぬものかもしれません。
一方、noteの記事を読んでいると、文章を書くことが本業ではないはずの方たちによる読み応えのある内容が多く、書店も図書館も閉まっていた自粛中には、刺激を受けました。料理人、音楽家など言語以外での表現を主とする方たちの投稿も拝見していると、転職活動をしてもPR文の作成には困らないのではないかと思うほどです。
もちろん全てが真実かは分かりませんが、文字を通じて表現するということに慣れている方が多いようにお見受けましす。不況の中でも自費出版ビジネスが一定の売上を確保できているのも納得です。
書くことは、自分の中にあるものを表現する手段のひとつ。
出版点数が増えすぎて、かつてのように全ての本が国立国会図書館に収納されない時代になったため、あなたの作品が死後も残りますというセールストークは使えなくなったかもしれませんが、想いが形に残るということは重要かもしれません。
ふと、当時担当した本が教科書に掲載されると報せを受けた時、著者へ知らせた時の反応を思い出しました。
書くということは、自分の生きた証を残すことなのかもしれません。
石板は今も残り、木簡も修復すれば数千年前のものも読解可能。レコードは修復次第で再生可能、カセットテープ、CDと新たなものの方が劣化が早いというのは高校時代に受けた模試の文章題。
10年ひと昔どころか、近年では2年前に流行っていたものも記憶があいまいになるほど、移り変わりの激しい時代です。紙の雑誌が減り、Webニュースは数年前の記事は既に削除されていることもよくあります。
昔と違って、誰でも購入できる紙。
別途費用も要さず表現できる電子媒体。
さて、10年後、100年後まで残る内容は、どのようなものなのでしょうか。移り変わりの激しい時代の中で、今日心に残ったweb記事を来年探し当てることができるのかも怪しい自分自身。
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに
今嘆くは、容色の衰えよりも記憶の衰えであろうか…梅雨時の長雨にふと蘇る一首でした。