読む必要のない軽率論
わたしは今まで、居心地がいいコミュニティというものに属したことがなかった。
学生時代もそうだし、社会人になってからも、趣味の仲間うちでもだ。
今夜は、久しぶりに小説教室に参加した。
教室では、生徒が書いてきた何万字もの作品を読んで一人ひとり感想を言う。
所詮は素人が書くものだ。プロとは比べ物にならないし、こんなものを読んでいる時間があるのなら、正直プロのものを読みたくなってしまう。
はじめのうちは、作品を隅々まで読んでいた。腐してやろう、という気持ちもないわけではなかった。なにせ、みんながライバルなのだから。
そんななか、わたしはいつからか、小賢しくも「作品の側だけ読んで、ありきたりな感想を言う」という技を身につけてしまった。
一種の処世術というか。無味無臭のなんの栄養にもならない感想を言う代わりに、その場がとりあえず何事もなく、終われたら。そんな気持ちで適当な感想を言っていた。
そんな今夜は、思ったことがあった。
それは、「面白く話せる人がけっこういるんだな」ということだった。
たった数分の感想を伝えるだけなのに、それに命をかけているのかってくらい、面白い感想を述べる人が何人もいた。
中年のペーソスを弁えていて、自虐も入れる。周りの生徒たちが思わず「ふふふ」と笑ってしまう。決して弁が立つというわけではないのに、引き込まれる語り口。
ちょっとジェラシーだった。自分の書いた作品を貶されるよりも、落ち込んだ。
わたしは昔から、複数人がいる飲み会とかそういった類の集いで、周りとうまく話せたためしがなかった。それが、冒頭で記した「居心地のいいコミュニティに属したことがない」という言葉に由来する。
とにかく周りと同調できず、かといって、議論するなんてことは面倒なのでしたくない。
結果的に、場をしらけさせるような変な笑い方をして、ひかれる。人間って心から面白いと思ったことにしか笑えないんだとわかった。
少し前にどこかで、複数人とうまく話せない人はASDの疑いがあるっていうのを目にした。もうそれならそれでありがたいよ。病名ついてくれたほうがさ。
結局、人間が出来ている人が、ほんとうに人を引き込むんじゃないだろうかって思った。
昔から、誰にでも好かれる子っていたよなってふと思い出した。わたしは、そんな子と仲良くしていた一方で、内心蔑視していた。
今思えば、そういうところだよ、わたし。30代になってもなーんにも変わってないんだよな。
人間性の問題。
本当はうまく人と話せるようになりたい。
うまく生きられるようになりたいのだけれど。
今夜の教室では、チャーリーズ・エンジェルに出てきそうな、わたしの尊敬する魅惑的なむんむんおねえさん(新婚)の誕生日祝いに、ちょっとお高いスキンケアマスクをプレゼントした。おねえさんはありがとうって、喜んでくれた。
しかし、そのおねえさんにもう一人、プレゼントを渡した女性がいた。
その女性がプレゼントしたのは、ピンクの百合の花だった。
負けた、と思った。
おねえさんは、ずっと、その百合の花の香りを嗅いでいたのだった。
わたしにはセンスのかけらもないということを思い知らされた夜の小説教室だった。
帰りの電車で聞いていた不毛な議論の「真夏の大喜利甲子園」のにやにやが止まらない系の面白さと、山里さんの声のざらざら感が、なんだか妙にあたたかく思えて、癒された道中だった。
軽率に吐き出す夜。
教室を継続するかどうかは、考え中なり。
とりあえず、わたしは眠れるまでフジコ・ヘミングを聴きます。
おやすみなさい。
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