女の子といういきもの
前職で知り合った同僚のおばさんと、たまにLINEをする。
彼女からわたしに連絡を寄越すときはたいてい、職場でなにかがあったときだ。
上司との定期面談で新しい仕事を振られた。ズームで毎月行われる全社員集会で会社の業績があきらかに傾いていることがわかった。人事部のあの人がミーティングで堂々と社員の個人情報をひけらかしていた、などである(これだけ聞くとけっこうやばい会社に思えるかもしれない)。
以前わたしが勤めていた職場というのは、本社とはべつに非常にこぢんまりとしたオフィスを構えていて、そこに勤務している人は、わたしを含めて四人しかいなかった。男性が二人、女性が二人である。
だからなのか、わたしはひとまわり以上も歳の離れたおばさんと必然的に仲良くなった。
彼女はとても少女のような人だった。
なぜかというと、週に一度、オフィスにやって来る産業看護師との面談後に、彼女の頬がいつも赤らんでいるように見えるからだ。
彼女自身の口からは、恋愛はもう諦めている、そんなことを何度か聞いたことがある。それが本心なのかどうかは置いておいて、四十代未婚女の恋というのは、わたしにとってはまだ想像しがたいものがあった。しかしながら、三十二歳を迎えた今も独身のわたしにも、いよいよその現実というものを受け入れる必要性がおそらく出てきそうな予感がぷんぷんするので、そのおばさんの話を聞いていると、どことなくすっぱい気持ちになってしまう。
彼女は給料の大半を推し活に捧げている。
エレファントカシマシのボーカル宮本浩次のファンなのだ。もともと彼女は、椎名林檎が好きだったらしく、たまたま椎名林檎が宮本浩次とコラボしたことで、エレカシの存在に興味を持ったという。
仕事終わりに夜行バスで大阪に向かい、ミヤジに会いにいき、翌々日の早朝には東京に帰ってくる。そんなフットワークの軽さもある。
推しと好きな人は違う。
これはわたしのなかでは定説だと思っている。それは、対象に抱く感情を他人と共有できるかできないかの違いのような気がしている。
おばさん(そういえばわたしももうおばさんなのだが)は、ミヤジのこんなところがいいということをよくわたしに教えてくれた。強引に勧めるわけではなかったが、彼女のその言葉にはいつも熱がこもっていて、おかげでわたしもそれ以来、サブスクでエレカシをよく聴くようになった。
「人生なにが起こるかわからないですね」
と彼女は言った。推しにすべてを捧げる人生になるとは、そのときの彼女は思いもしていなかったそうだ。
産業看護師の男性には、週に一度の面談で、わたしたちの体調について色々と相談できる。年齢はおばさんと同年代くらいで、ゆるゆるパーマにゴルファーが着るような水色のポロシャツというなんとも看護師らしからぬ風貌をした線の細いおじさんだ。
わたしたちはたまに、その看護師さんに関しての情報を共有する。自宅が湘南のほうにあって、サーフィンが趣味であるだとか、もしかしたらまだ結婚をしていないだとか。
ふと、面談から戻ってきたおばさんを横目で見る。
——やっぱり赤い。
でも、彼女はすぐにパソコンに向かって何事もなかったかのように仕事を再開する。
なにも言わないんだな。そうか。もしかしたら、これはきっと彼女がほんとうに大切にしたい感情なのかもしれない、とわたしは直感的に思う。だから、わたしもそれに関して深くつっこんだりはしない。
わたしの名前が呼ばれる。席を立つ。鼓動があきらかにはやくなっているのがわかる。
彼女の背中を見やる。なんだかこたつみたいにそこだけボワっとあたたかいなにかに包まれている雰囲気がする。
——恋かあ。
面談室ではわたしの名前を呼んだ張本人がやさしくほほえみかけてくる。
わたしもこうして、看護師さんと面談をする。もういつだったかも憶えていない初恋をしていたころの少女のような面持ちで。
仕事を辞めた今でもたまに、彼女のことを思い出し、気にかけ、そしていろいろとうまくいってほしいと願う。
「人生なにが起こるかわからないですよ」
まるでいつかの彼女のように、未来の自分にそう言い聞かせてみる。
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