練馬区役所展望台にて
二十代中盤のころ、わたしがよく遊んでいた男性の話である。
彼は当時、東京駅でお土産を売る仕事をしていて、よく思われたかったわたしは、似合ってもいない麦わら帽子をかぶってそのお土産屋でよく饅頭を買った。
数十分後に「◯◯さん(わたし)ありがとう、まだ近くにいる?」というラインがきたので、よく思われたかったわたしは「大丈夫だよ、仕事がんばって」とだけ返信をした。
彼に対しては、重荷になりたくないというのがどうもわたしの根底にあるようだった。
二十代のわたしは、まわりの人間がする普通の恋愛というものにまだ憧れを持っていたので、お付き合いという過程を踏まないとどこか納得しない部分を持っていた。
しかし、彼に出会って、そういうことを考える必要もないのだなと思うようになった。
三回飲みに行って、特になにもなかった。ふたりでべろんべろんに酔っ払ったとて、改札では笑顔で分かれるのが常だった。
彼は非常に自由な人だった。恋人は今はいらない、というような雰囲気をどこかで感じていたし、わたしには、彼の恋人になる魅力もきっと持ち合わせていないと思っていた。
わたしは、ほんとうはこわかったのだ。付き合ってくださいと言ってしまったら、この関係性が壊れるのかもしれない。だったら、これでいい、と受け止めようと思っていた。
四回目に旗の台の飲み屋で飲んだ。いつにもまして、わたしたちは酔っ払っていた。
これからどうする? なんていう言葉がそろそろ飛び交ってもいいころだった。そこで彼はどういうわけか、スマホを取り出した。そして、画面を赤い指の腹で操作して、真っ白なノートアプリを立ち上げた。
「ここに今思っていること、書いて」
酔っ払っていたので、そのときわたしはきゃっきゃと笑っていたが、内心はすこし緊張していた。
彼のスマホを受け取って、わたしはすぐに指で書いた。
【だいて】
間延びしたようなひらがなの指文字が自分で書いておきながらとても面白かった。その文字列だけで、わたしたちはにやにやしながらまた一杯飲んだ。
彼は練馬区に住んでいた。埼玉の実家から近いからとかそんなような理由で引越してきたのだと思う。おかげさまで、練馬区のグルメにはすこしだけ、詳しくなった。
彼の部屋で、わけのわからないパンクロックのミュージックビデオを観ながら、ご飯を食べ、くつろいでいるときだった。
「練馬区役所の屋上って、展望台になってるんだよ」
初耳だった。まじ? とわたしは身を乗り出す。まじまじ、と彼は言う。
でも彼はまだ屋上にのぼったことがなかったらしい。
わたしは「行きたい」という言葉をすんでのところで飲み込んだ。彼のはじめてを奪うのはちょっと気が引けたのだ。
すると「今から行く?」とけろりとした声で彼は言ったのだった。わたしは若干の戸惑いを見せたものの、喜んで一緒に行くことにした。
練馬区役所の屋上に着くと、ほんとうに展望台があった。あたり一面がガラス張りになっていて、店の看板であったり、ビル群の明かりだったりが点在していた。ときには高層マンションの中層階の住人がカーテンを閉めるところすらもくっきりと見えた。
これが彼の住む練馬区の明かり。東京の明かり。
そのときのわたしは、きっと口を開けてめちゃくちゃ無様な顔をしていたに違いない。
こういうたぐいの明かりを、きっと今までに何百回と見たことがあったはずなのに、どうしていつもこんなに新鮮に驚くことができるんだろう。
ふと、展望台の手すりに置いた自分の手にあたたかさを感じる。心がひやりとして、目線だけ下に向ける。
「きれいだね」
そう言った彼の手が私の手に重なっている。
こういうことを、自然にできてしまう人なんだなと思った。自然になんでもできてしまうから、やっぱりわたしは、こわいのだ。どうやっても掴めないものを望んでいるような気分になる。
わたしたちは、どこまでいっても「ごっこ」だった。でも、それが当時のわたしにはほんとうに楽しかったのだ。
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