スピッツとごちそう
メンタルが落ちたり、闇に落ちそうになった時にスピッツの曲を聴く。
縋る思いでスピッツを聴く。
普段も聴いているが、あと一歩で闇に落ちそうな時、縋る思いでイヤホンを耳にさし、大音量で聴くスピッツは体に一層沁みる。
大音量で『チェリー』を聴いていたら蘇ってきた記憶がある。
小学校中学年の頃の話だ。
それまで在任していた音楽の先生が異動になり、入れ替わりで新しく着任した音楽の先生の挨拶が印象的だったのだ。
「この学校の校歌は、『豪華なごちそう』です」
というものだった。
他の小学校の校歌を知らないので比較はできないが、その先生の言うところによると、私が通っていた小学校の校歌は音の数が多いらしい。
和音が重層的で豪華なごちそうだ、こんな豪華な校歌は聞いたことがない、ぜひ校歌を大切に歌ってほしい、と彼女は挨拶した。
歌を豪華なごちそうに例える、その感性の豊かさも、音の数が歌に華を添えることも、校歌の良さも当時は理解ができなかった。
「変わった先生だな」と思った。
『チェリー』をささくれだった心に大音量で注入しながら、蘇ってきた記憶に首を傾げる。
なぜ今更、小学校での、それも華々しくもない記憶が蘇ってくるのか。
苦々しい思い出しかない頃の記憶なので、正直、蘇ってほしくなかった。
ただでさえ今は心がささくれだっているのだ。
記憶を振り払うように音量をまた1段階上げる。
ところが『チェリー』が3周目に入って、ようやくその理由に気が付いた。
これまでにも何十回、何百回と『チェリー』を聴いてきたのに、なぜ気が付かなかったのだろう。
答えは音の数だ。
『チェリー』は最初と最後で鳴っている音の数が全然違う。
シンプルなメロディーで始まる歌が、最後には壮大なシンフォニーになって終わる。
途中で鳴る楽器が増えていく。
春が近づいて花が蕾み、ついには花開くように。
勇者が冒険を進めながら仲間を増やしていくように。
音の数が増えれば豪華なごちそうになる。
突然、雷に打たれたような気持ちになった。
『チェリー』を聴いたあとの、あの何とも言えない充足感は音の数にも起因していたのかもしれない。
素晴らしいごちそうを食べて心が満たされた合図なのかもしれない。
「ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ」
この歌詞と壮大に鳴る音の粒たちに今日も生かされている。