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ローマでひとり
僕は悩んでいた。
この店を手放すか否かについて。それは10年ぶりに街で見かけた同級生に声を掛けるか否かと同じ程度には難しいテーマであった。
「ボンジョルノ!いつものクロワッサンとカプチーノを頼むよ。」
「ボンジョルノ、昨日のローマは酷かったね!」
「今度ミラノに行った時に有望なストライカーを口説いてくるよ。そうでもしないと気が済まないからね。」
僕は3年前から熱心に通ってくれている常連のルイージが今朝一番のお客さんだ。通い始めたときに連れ添っていた奥さんとは別れ、今は娘に会う機会もほとんどないらしい。
機嫌だけはいつもいいおじさんなのだが、これ以上なにを求めるというのだろうか。人生は本当に何があるか分からないと教えてくれた一人だ。
そんなことを言っている僕も人のことは言えない。大企業のノウハウを持って35歳の頃に立ち上げた会社を、2年あまりで畳んでしまった。創業当時は気力と資金に満ち溢れ、人もたくさん集まっていたのだが、気づくとすり減っていく気力を追いかけるように資金もなくなっていった。これ以上従業員に迷惑をかけられないと事業撤退を宣言した僕には何も残っていなかった。
その期間で唯一覚えているのは、妹の娘、凛と遊んであげている時間だった。
僕の姪にあたる凛は、彼女の祖父母である僕の両親にはあまり愛想がよくなかったが、何故か僕とは気が合った。
しかし、会社を潰した当時は、その癒しの時間さえ気が休まらなかった。
「ちょっと遠くに行ってきたらいいじゃないの。」
もう小学校の低学年にもなる凛が遊び疲れて寝てしまっていたときに妹にそう言われた。
その時の僕には、そんなことを言ってくれる人間がまだ世界にはいるのかと感動してしまった。ただ同時に、そこまでの気力がないと反論してしまう自分もいた。
その1週間後、僕はローマのフェウミチーノ空港に降り立っていた。
妹としては何泊か温泉に行ってくるように言ったと思うのだが、その言葉を間に受けた僕は丸3日考え続けた末にローマ郊外に移り住むことにした。
日本にいると心が落ち着かなかったし、逃げるなら当分は誰も追いかけてこないようなところに逃げたかった。
数週間ドミトリーを転々として、ローマの地図を見なくても歩けるようになった頃に、ひどく気に入ったバルを見つけた。
そこはモンテマリオ駅のかつて大統領が暗殺された場所からほど近い小さなバルだった。たどたどしいイタリア語で注文をした1週間後には、カウンターの内側に立っていた。魔女の宅急便を思い出した僕は、手伝わせてもらえないかと交渉したのだ。
そんなことがあってからもう10年にもなる。お世話になった元店主は、5年前に歳だからとナポリに住んでいる息子夫婦のところにあっさりと越してしまった。
僕はコーヒーの粉をぎっしりと銀色のカップに詰め、カプチーノが出てくるのを待ちながら、今までのことを思い出していた。
ルイージに頼まれたものを出し終えると、10年前の凛が映ったスマートフォンが震えていた。+81の文字をみて緊張した僕は両手で卵を持ちあげるようにスマートフォンを手に取った。
「突然ごめんね、結論から言うと凛がそっちに向かう。泊めてあげて。」
状況がうまく掴めないのに加えて、適切な日本語がその場で出てこない自分に驚いた。
「今高校3年生で、受験生なんだけど、どうしても海外に一人で行きたいっていうの。私も疲れてたのよ。咄嗟にローマのおじさんのところに泊まるからって言われて、それならって許可しちゃって、」
「こちらとしては大歓迎だよ。大したことはできないけれど、凛のためなら宿とご飯の用意くらいはできると思う。」
華奢な体にリュックを担いだ凛を見たときには驚いた。時間が一気に進められた浦島太郎になった気分だった。
「よろしくお願いします。これ母さんから。」
東京ばななを渡されたときに見えた目は、確かに凛のものだった。
このとき迷いが確信に変わった。
日本に帰って、仕事でも探そう。
雑多な街、ローマ、ありがとう。チャオ。
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