溢れる想い 十五話
学校に残っている人はもうわずか。おれと松井は屋上にいた。風に吹かれる度に、松井の短いスカートから下着が覗く。お尻に食い込んでいて、豊かな体つきが内心を確かに興奮させる。いつまで経っても、慣れるものではない。
「もっと早く言えばよかったかな」
空に向けて、歌うように彼女は言う。青いバックに音符が浮かぶ。
「転校することを?」
「そう。今はそう思う。もっと時間あると思ったんだけどね。あっという間だった」
寂しさを、切なさを埋めるようにあくせくしてみたものの、やはりそれらはやってきた。胸を締め付ける、確かな感情。
「私、ずっとあちこちを転校してきたんだ。色んな人に出会ってきた。けっこう、自分では友達に恵まれている方だと思う。ここでも、夏希に出会えた。怜奈も薫子も最高の友達だった。委員長は、女子には優しかった。宿題を助けてもらったこともあるし。大好き」
大好きな理由が宿題を助けてもらったことかよ、と口を挟みたくなった。だが、黙っていた。彼女が本当に言いたいことはそういうことではないだろう。
「せっかく積み重ねてきた絆が壊されるのは、何度経験してもいいものじゃないね。また、一から始めないといけない。本音を言うと、少し怖い。私、よくも悪くも目立つじゃない」
悪戯が見つかったみたいに笑う。はち切れんばかりの胸をちらりと見やる。目立つのは事実だが、悪いことはないと思う。
「でもね、今回はそんなに怖くないんだ。なんでか分かる?」
ようやく、言いたいことを察した。だけれど、とぼけた振りをした。
「さあ? 分からない」
また、彼女は笑う。いつもよりニコニコしている。溢れてきそうな別の感情を抑えつけるように。
「水野君がいるからだよ。私、水野君ほど好きになった人は、他にいないの。だから、遠く離れてしまっても、水野君が私を見守ってくれるなら、やっていける気がする」
大丈夫、自分の声が自分のものではないみたいに響く。
「おれが見守ってるよ。遠くから。離れてしまっても」
「絶対だよ?」
また、笑おうとした。しかし今回は失敗した。目に涙が浮かび、顔が歪んだ。堪えるように下唇を噛むけれど、溢れてくる感情は抑えが利かない。
愛おしさを覚えながら、優しく抱き締めた。
「絶対。約束する」
胸元に顔をうずめる松井が、何度も頷く。頷きながら、ありがとうと呟いた。消え入りそうな「ありがとう」を、おれは懸命に拾った。
春の到来を待つことなく、松井はこの街を去った。
そして、そんな一人の不在に感応するように、桜が盛大に花を咲かせた。春が来たことを、何よりも説得力のある形で教えてくれる。始業式が行われる学校まで、桜の並木道を歩く。綺麗だ、と毎年のように思う。この花に心を満たされるのは日本人が筆頭だろう。他の追随を許さない。
風で花びらたちが舞っている。手のひらを掲げて、その上に乗せたい衝動に駆られるけど、高校生男子がやっても絵にならないだろうことを悟った。黙って、感傷に浸るだけでいい。
目の前に、絵になる少女がいた。実際に手のひらを水平に掲げて、あわよくば乗せようとしている。その横顔には、かすかな笑みが見てとれた。
前田だ。
おれは歩調を速めて追いつき、背後から声をかけた。
「子どもみたいだな」
絵になる、という感想とは別のことを口にした。ストレートに誉めるのは柄に合わない。
前田は急に我に返ったように身を引いて、その咄嗟の動きで転びそうになった。
「わっ」
おれは考える間もなく両腕を伸ばし、彼女の体を支えてやった。そのため、抱き締めるような格好になってしまった。顔が近い。見つめ合う互いの顔が紅潮しているだろうことが分かる。少なくとも、前田がそうなのは視認できるし、自分がそうではない自信がなかった。
「なんで、何もないところでこけんだよ」
ようやく体を離し、照れ隠しみたいに言った。
「水野君が驚かすからだよ」
「花びらを取ることに集中しすぎだろ」
「あ、そうだよ。せっかく乗りそうだったのに、水野君が話しかけるから」
「悪かったな、話しかけたりして」
ひとしきり言い終わった後、どちらからともなく笑い出した。そして、
「おはよう」
と、彼女は言った。天使みたいな笑顔で。おれはこの笑顔が好きだった。
「おはよう」
「今日から二年生だね」
「そうだな。一年経つのって、つくづくあっという間」
「ねー。後輩ができるんだよね。部活にも入ってくるし」
「どんな後輩が入ってくるか楽しみだな、おれは」
バレー部は今年こそ全国、とやはり意気込んでいる。
「私だって。できれば、マネージャーがもう一人欲しいかな」
前田は、大志が死んだ後もサッカー部のマネージャーを務めている。といっても、大志がいたことが入部のきっかけではなかったわけだけど。
「もう一つ言うなら、かわいい子がいいな」
「へえ。でも、しっかりしろよ。さっきみたいに何にもないところで転んでたら、舐められちまうぞ」
「あー、そうね。あの癖ばっかりは治ってくれそうにないから、見られないようにしないと」
治る見込みないのか、と内心で愉快になる。表面上はしっかりしてそうなのに、意外なところでドジをやらかす。
入学式の日を思い出す。あの日も、前田は今日と同じことをやっていた。変わらない、と思う。そして、一年が矢のごとく過ぎ去ったことを改めて実感する。
「――ちゃんと、えれなと連絡取ってる?」
しかも、これから向かう学校に松井はいない。
「取ってるよ。当然だろ」
「男子って細かい気配りができないから、おろそかにすると愛想を尽かされるよ」
「おれはそんなことないって」
角を曲がって、校舎が大きく見えてくる。気のせいだろうか、いつもより華やいで見えるのは。
「ほら、遅刻するよ」
前田が先に行こうとする。時間はまだあると分かっていたけど、彼女に遅れまいと急いだ。
校庭にも桜の花びらが舞っていた。
おれの本当の気持ちが自分でも判断つかない。自分でも分からないくらいだから、他人からしたらもっと困難を極める解読なのだろう。
分からないとしても、嘘はつけないと思う。どう変化するか予測ができず、しかもあまりコントロールできないそれならば、目の前に提示されたときはちゃんと受け入れるべきだ。
迷いはなかった。ためらいもなかった。ただ、間違ってはいないと判断した自分を信じただけだ。揺らいでなどいない。始めから、ずっと一貫していた。
前田が、大志の誕生日にお墓参りに行こう、と誘ってきた。大志の誕生日は五月で、その頃には新しい学年にも慣れつつあった。お互い、環境の変化に対応することに忙しかったため、あまり交流はなかった。それだけに、その誘いは唐突に感じた。
でも、断る理由もなかった。二人で電車に乗って、大志の実家の方まで運ばれていった。お尻が痛くなるくらい、かなり長い時間をかけた移動だった。その間、会話はもちろんあったけど、それほど多くもなかった。それぞれ、色々と考えることもあったと思う。
上野は誘わないのかと思った。思っただけで、訊くことはしなかった。なんとなく、訊いたらいけない気がした。なんとか平衡を保っている状況が、その一言で瓦解するのではないか。そんな不安を感じていた。
ひょっとしたら、おれだけを誘ったことに特別な意味はなかったのかもしれない。だけど、この後に起こったことを踏まえると、そこには必然性があった、と言える。
駅に降り立つと、穏やかな田園風景が広がっていた。心が洗われる。大志は、ここでどんなことを感じたのだろう。風景を見て、自然に触れ、どんな感情を抱いたのだろう。それを確かめる方法は、もはやない。
なだらかな山道を少し登った先に、お墓がたくさん並んでいた。前田は初めて来る場所ではないのだろうか、先に進み、すぐに「島津家」のお墓を見つけた。
大志に、手を合わせる。胸の奥で唱える言葉は、言葉にするとありふれたもの。でも、それを言わせる心情は決してありふれたものなどではない。そうは言わせない。
「水野君」
前田がしゃがんだまま、先に立ち上がったおれを見上げる。
付き合ってくれて、ありがとう。
なんだか優しい響きで、おれは彼女が誰よりも大志を愛していたことが、改めて分かる。その陰のある笑みを、白すぎる頬を、愛おしいと感じた。
かわいそう、ってこういうこと。可愛そう、という漢字を当てるとよく分かる。愁いを帯びた彼女の表情は、平素のそれよりもずっと愛らしく映る。ひどい思考かもしれない。でも、正直にそう思った。
そして、気づいてしまった。人を好きになる感情はそう簡単になくなるものではないし、変化するものではない。おれは前田に振られて、彼女が大志と付き合ったことで、心に穴ができた。その穴を埋めてくれたのが、松井の包容力だった。もちろん、松井には感謝をしているし、付き合っていた時間はとても貴重だった。
だけれど、離れてみて、そして、再び前田を近くに感じてみて、認識を新たにする。おれが、本当に好きだったのは――。
「前田」
しゃがんでいる彼女の手を取って、立ち上がらせる。向かい合って、その瞳をじっと見つめると、戸惑いの色が浮かんでいた。
お墓の方をを見ないで、おれは大志に話しかけた。――ごめん、いや、ごめん、なのかな。おれはやっぱり、自分に嘘をつけない。大志なら、分かってくれると思う。だって、おれたちは親友だろう? 少なくとも、おれはそうだと信じて疑わなかった。お前もそう思っていてくれただろうことを、願っている。許してくれ、とは言わない。応援してくれ、なんて口が裂けても言えない。ただ、遠くから見守っていてほしい。結果がどうであろうと、どんな未来が待ち構えていようと。
「ずっと、おれの想いは変わらない」
もう、覚悟を決めた。口を開いて、万が一にも聞き漏らされることがないように、はっきりと発音した。
あなたのことが、やっぱり好きです。
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