本音か、承認欲求か
ここ最近、noteを書いたり、SNSの投稿をわりと頻繁に更新したり、アートワークを作成したりして、自分の中にあるものを自分なりの方法で外に出すことにはまっている。
もしかしたら、私の好きなことは、
『自己表現』
なのではないだろうか?
長年にわたり、自分自身の本当にやりたいこと、好きなことを模索し続けていた私にとって、晴天の霹靂、とまでは言わないが、もしかしてこれではないか!?と核心めいたところに辿り着いた気がして、ひとり静かに興奮したのが、数日前。
そのとき、私はなにが好きか、の問いに対して、ようやく自分が納得のできる答えに辿り着いたような気がした。
私が将来、いや、むしろ今この時点で、人生楽しんで生きるのに十分すぎるお金を持っていると仮定して、その生活を想像してみる。
世界中をファーストクラスで旅しても、お金の不安がないほどにお金がある生活。
それでもなお、私の中に何かが芽生えたら、私はnoteを書きたいと思うだろうし、その他の方法でも、自分を表現することはやめないだろう、
と思ったのだ。
それは本当に、核心めいた気づきだったし、私は心の中で、
そうだ、これだ!これだったんだ!私がやりたいことは。
お金がもらえなくても、誰からも強制されなくても、勝手に自分がやっていること、あったじゃないか!
と思い、この発見に少なからず興奮し、嬉しかった。
よくよく考えると、ここ1年ほど、料理することが好き、と答えていたけれど、自分の置かれている環境によっては全く料理しないし(今は全くしていない)、自分の好きなことは料理、と答えることになんとなく違和感を感じていたことの答えも、ここにある気がした。
私は料理そのものが好きというよりは、自分の頭の中にあるアイデアを外に出すことが好きだったのではないか、と。
私が料理のプロセスにおいて楽しいと感じるのは、食材を自由に組み立てて献立を考えることだったり、料理しながら思いついたことをその場で実践することだったりする。
つまり、自分のアイデアを実際に形にしていくことが楽しい、と感じていたように思う。
もうすでに決まっている献立に対して、ただただ野菜を切ったり、調理したりするだけの料理は、あまり好きじゃないし、楽しいと感じない。
noteを書くにおいても、アートワークを創るにおいても、料理するにおいても、自分の頭の中にあるアイデアを実際に現実世界で表現する行為である、という共通点がある。
こうして考えると、一見腑に落ちる、自分なりに納得のいく答えが出た気がする。
でも私は、そうして一見自分の腑に落ちた、『自分の好きなこと』に対して、いや、ちょっと待てよ、と思い直した。
その理由に、私の抱える「超巨大な承認欲求」がある。
最近内省したときに、自分が劣等感の塊であり、承認欲求がかなり強いということがわかった。
自己内省したことによって、自分を見るときの色眼鏡がひとつはずれ、今までよりは冷静になって、過去の自分の行動を省みることができるようになった。
その結果、今まで自分がやりたい、好きだ、興味がある、と思ってやってきたことの多くは、誰かに認められたいがためにとっていた行動であったのではないか?との結論に至った。
自分があまりにも承認欲求によって突き動かされていたことを知り、愕然とした。
その時その時は、それが本当に自分のやりたいことだ、と思っていた。
だけど、その当時の承認欲求のブロックが外れた今の私が見ると、その当時の私の行動は、周りから認められたいがためにとっていた行動だったな、とわかる。
この承認欲求の厄介なところは、その渦中にいるときは、自分が承認欲求に支配されている、ということに気がつけない、ということだ。
私の抱える承認欲求があまりにも大きく強いせいで、承認欲求と本来の自分がほぼ一体化してしまっているのが原因。
だから、本当の自分の願いと、承認欲求からくる偽の願いの区別が、つかなくなってしまっている。
これに気がつけたのも、つい最近のことなんだけれど。
だから、私が今こうしてnoteを書いているのも、アートワークを創っているのも、全部本当は、私の承認欲求からきているのではないか、と疑ってしまう。
もし私が無人島にひとりで、電波もないところでひとり取り残されたら、私はそれでも自分の想いを書き出したり、アートワークを創ったりするだろうか?
その答えは、今の私には正直わからない。
無人島でもやる気がするし、やらない気もする。
これが本当に自分の心からやりたいことで、承認欲求からではないと言い切れる私は、今ここにはいない。
それでも、今の私がやりたいと思うから、書く。創る。
今はそれでもいいんじゃないかな。
自分の本音と向き合うのって、難しいな。
はる
2024.2.15
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