悪と闇
去年の11月上旬ごろ。
とある集まりで、「悪と闇」が議題にあがって、それについて、みんなで話し合う場があった。
「悪」と「闇」について話し合うことは、主催者によってもともと決まっていたようだった。
私はそんな話し合いがされることがされるとは知らずにその場にいて、思考の速度が遅い私は、その場で出された話し合いの議題について、自分の意見をまとめることはできなかった。
そもそも、なぜ悪と闇が比較対象になるのか、なぜ悪と闇が同じ土俵にあげられて話し合いの対象になるのか、ピンとこなかった。
それまで私の人生では悪と闇が比べられることはなかったし、悪と闇は同じ次元で語られる言葉ではない気がしたのだ。
それでも、なぜか私の心の中に残り続けた「悪と闇」という議題。
ふとしたときに思い出しては、自分なりの解を探していた。
そして今日、なんの脈絡もなく、この「悪と闇」についてふと思い出していたら、今の自分が納得のいく解を得られたから、こうしてアウトプットすることにした。
私にとって、
「悪」は、つくられるもの
「闇」は、そこに在るもの
だという結論に至った。
去年の話し合いのわりと直後から似たようなことは考えていたけれど、今日、一番しっくりとくる表現方法が見つかった気がする。
以下はあくまで私の考えなのだけれど、
《絶対的な悪》というのはこの世に存在しない。
いつなんどきでも、なにかの事象に対して「悪」と感じるかどうかは、人それぞれに異なる。
なんなら、"今"のある人にとっては悪だと感じられたある事象も、"未来"のその人が同じ事象に対して悪と感じるかは、わからない。
だから、「悪」というのは、それぞれの人の中でつくりだされる、なにかの事象に対する捉え方のことだと、私は思う。
対して「闇」は、
他の自然や、自然現象と同じように、ただ、そこに在るもの。
月の引力で潮の満ち引きが起こるように
風が吹けば波が立つように
森のように
岩のように
ただ、そのように、存在する。
ただ、そこに、在る。
闇は、確かにこの世に存在する。
闇を悪だ、とするならば、それはその人が闇を悪として捉え、闇が悪である、という考え方をつくりだしたに過ぎない。
闇は否定するものでもないし、肯定するものでもない。
ただ、そこにあるものとして、受け入れ、ともに生きていく。
それが、私にとっての「闇」だ。
私にとって、悪と闇は全く異なる概念だ。
最初に感じた違和感は、今、納得のいく形で言語化できたと思う。
そして、もし議題が「善と光」であっても、私の答えは「悪と闇」と同じだろうと思う。
(悪の対義語を善、闇の対義語を光とした場合)
この世には、絶対的な悪も、絶対的な善も存在しない。
そこには、人によってつくりだされた「悪」と「善」があり、人それぞれの「悪」と「善」がある。
ある人の「善」はときに「正義」となって、その人にとっての「悪」と戦うけれど、その「悪」はまた、誰かにとっての「善」であり、「正義」だったりもする。
光と闇は、もっとシンプルだ。
解釈をつける必要もない。
ただ、そこに在る。それだけなんだと思う。
はる
2024.4.12