初めての遺書
昨日の夜、人生ではじめて遺書を書いた。
というのも、私の友人が、遺書展というものをやっていて。
本当は展示会に行きたかったけれど、物理的な距離の遠さから、今回は行けなかった。
それでも、その展示会に合わせて、私も一度、遺書を書いてみようと思ったのだ。
遺書を書くって、どんな感じなんだろう?
私はいったい何を書くんだろう?
と、純粋に興味もあった。
自分にとって、遺書を書くというのは初めての体験だったから、今回、遺書を書いてみての感想を書こうと思う。
遺書を書くのは今回が人生で初めてだった私だけれど、死にたい、と思ったことは、過去何度もあった。
今思い出せる、一番初めに死にたい、と思ったのは、私が小学生4年生か5年生のころ。
それ以来、死にたい、の思いは私の中のどこかにあり、ふとしたタイミングで強くなったり、あるいは全く思い出すことがない時期もあったりで、日常を過ごしていた。
突然だけれど、
死にたい
という思いは、ある意味で強いエネルギーを持っていると、私は思う。
死への積極的なエネルギーを、感じる。
でも、
生きるのをやめてしまいたい
という思いは、生きるのに消極的で、エネルギーが、ない状態。
もうすべてを諦めて、放りだしたい、やめてしまいたい、そんな感じ。
だから、このふたつの思いは、たとえたどり着く先が同じだったとしても、私の中では感覚として別だと思っている。
ここ半年ほどの私は、
死にたい、という積極的なエネルギーを持った状態と、
生きるのつらい、やめてしまいたい、というエネルギーがない状態と、
そのどちらでもない状態とを、行ったり来たりするような、そんな感じだったように思う。
自分の存在価値がわからない。
私、なんで生きているんだろう。
朝、目が覚めた瞬間から、
自分の生きる意味や価値を考えて、
自分自身と、自分の人生の無意味さ、無価値さを実感して、
涙が溢れてきて、布団をかぶったまま、静かに涙を流す、なんてこともあった。
そんな感じで、死にたがりで、生きるのをすぐに諦めてしまいたくなるような私だけれど、遺書を書こうと思ったことは、過去に一度もなかったと(私の記憶の限りでは)、思う。
別に、書き残したいことなんて特にないと思っていた。
いや、正確には、自分の頭の中で、
私が死にたかったときに頭に浮かんできた人たちへ向けて、言いたいこと、伝えたいことを伝える手紙を書く、みたいな妄想はしていたかもしれない。
と、これまたこの文を書きながら、定かではない記憶が思い出された。
だけど、あくまでもそれは全部私の頭の中だけで起こっている妄想だから、現実世界で実際にペンをとって紙に書く、ということはしたことがなかった。
スマホのメモに書く、みたいな発想も、なかった。
そんなだから、遺書を初めて書くにあたり、どう書けばいいのかわからなかった。
遺書の書き方やお手本を見てしまったら、それ以外の書き方ができなくなって、型にはまってしまう気がした。
型にはまってしまうのはいやだった私は、それでも、少しだけヒントをもらおうと思い、いったん、遺書とは何か?を調べてみた。
遺書は死ぬ前に書くもの、という認識でしかなく、そもそも遺書がなんなのか、あんまりわかっていなかった。
だけど結局、調べてもよくわからなかった。
いや、そもそも調べるモチベーション自体が、そんなに高くなかった。
だからもう、なんでもいいからとにかく書き始めよう!
と、書き始めた。
でもやっぱり、
遺書がなんなのかもよくわからないまま、
誰に宛てたものなのかもわからず、
何を書けばいいかわからない、
特に書きたいことも浮かばない、
そんな中で、遺書を書く。
あんまり気乗りがしなくなってきて、今無理して書く必要あるかな?とすら思えてきたりして。
そんなだから、集中してノートにひたすら向き合って書く、みたいなことは正直できなかった。
なんだかお腹も空いてきて、バリバリとスナック菓子を頬張りながら書いていた。
それでも、私なりにノートを広げて、ペンを持って、
できる限り正直に、今の自分の中にあるものを、ただ出してみる。
そんな感覚でノートに書いていった。
出だしは、何を書けばいいかわからない、という正直な今の自分の思いから始まり、
その後は今まで通りの私って感じで、生きることに後ろ向きで、でもそれってしょうがないよねって感じの言葉が続いていた。
だけど、最後には全然別の角度から遺書を書いていた。
へえ、今の私は、こんなふうに思っているんだね、こんなふうに思えるようになったんだね、
と自分で書いていて、驚くような気持ちも感じつつ、
そうだよね、そうだったんだね、と思う自分もいた。
「どんな人生を生きたいか」
「自分が死ぬときに、どういう状態で在りたいか」
「死んだあとに、どう在りたいか」
そんなことを、遺書の後半にかけて書いていた。
書き始めは、そんなことを書こうだなんて、全く思いもしていなかったのだけれど、自然と流れで書いていたのだ。
遺書に、自分の人生どう生きたいか、自分が死ぬときにどう在りたいか、死んだあとにどう在りたいか、なんて、書いてもあんまり意味がない気もするし、遺書に書く内容ではない気もする。
それでも自然と、自分の最期のときに、私自身がどう在りたいか、を最後に書いて遺書を締めくくっていた。
なんだか、遺書というよりも、「死」を意識しながら書いた、今の自分へのメッセージ、自分自身へ宛てた手紙のような感じになったな、と今振り返ってみて思う。
この遺書を読み返すたびに、今の自分の在り方を省みて、自分の理想とする最期のために、
今の自分の選択は合っているのだろうか?
今の自分の在り方でいいのだろうか?
と、自分自身を見つめ直すことができそうだ。
遺書を書いてみて良かった。
遺書を書かなければ、意識することも、気づくこともなかったであろう、自分の理想とする最期の姿。
それを意識するだけで、これから生きていくうえで、自分の意識も変わってきそうだ。
遺書を書くきっかけをくれた友人には、感謝しかない。
本当に、ありがとう。
最後に、私が書いた遺書の後半部分をそのまま、ここにも書き記して、終わりにしたいと思う。
「私の人生、こんなものだった」ではなく、
「こんなにもたくさん経験できて、人にも恵まれて、幸せだった!」
と言って、死にたい。
自分自身と周りの人を心から愛して、大切にする。
そんな生き方をしたい。
そして、
「あの人は、愛の存在だったね」
「あの人に愛されて、幸せだったな」
と死んだあとに言われるような、人生を送りたい。
そのために私は、まだ死んでなんかいられないじゃないか、と遺書を書きながら思った。
自分がこんな風に考えていたなんて、書いてみるまでわからなかった。
書く機会をもらえて、感謝だ。
私を生かしてくれた全ての人、事象に、心から感謝の気持ちをもって、
「ありがとう。」
そうして感謝の気持ちを全身にめぐらせて、感じて、死んでいきたい。
はる
2024.2.5
気に入っていただけたらサポートしてもらえると嬉しいです♪