『それで君の声はどこにあるんだ?』
帯に書かれているジェイムズ・コーンという名前も、黒人神学という言葉も、私は知らなかった。それでも読んでみたいと思ったのは、『それで君の声はどこにあるんだ?』というタイトルに惹かれたからだ。
願書の合否を受け取っていなかったにもかかわらず、コーンに学びたい一心でとりあえずニューヨークにあるユニオン神学校の門を叩いた27歳の著者。案の定、もう選考は終わっていたけれど、まだ空きのあった留学生用プログラムに合格し、そこでコーンに就くことができた。
「キリスト教神学とは解放の神学である」とコーン氏は宣言する。
完読した今も、きちんと理解したとは言えないのが正直なところ。
いわゆる白人のものとされるキリスト教と、最初の奴隷が運ばれてきてから400年以上がたった今なお苦しめられているアメリカの黒人の現実はどう関わっているのか。「私は黒人神学を創り出したかった」とコーンは言う。
コーンの授業にはさまざまな人種が集まる。その中でコーンが発する言葉は読んでいてドキリとするものも多い。
「黒人以外の人間が、黒人の背負ってきた苦しみや痛みを理解するのは難しい」
とうてい理解できることではない、と著者も言っている。
私もいつも、そう思ってきた。
ジョージ・フロイド氏が警官に殺されたときも、今ではウクライナの人々に対しても、迫害されてきた(いる)先住民族のストーリーに触れるときも、怒りや悲しみ、なんとも表現し難い気持ちを抱えたとしても、当事者たちの苦しみにはとうてい追いつかない。むしろ自分の怒りや悲しみは偽善のようにさえ思えてくる。
その気持ちを著者は端的にこう表現する。
「うつくしく怒ることはできても、私の声にはならない」
アメリカの黒人は「生きている」のではなく、「生き残っている」という。400年以上にわたってそれを繰り返してきたと。今を生きるアメリカの黒人たちは、たまたま生き残り、そうできなかった人たちを埋葬してきた。400年以上にわたって。
また、次の一節にも深くうなずく。
「男性と女性、性的少数者と多数者、貧しい者と豊かな者、病や障害をもつ者ともたない者、国籍や母語が与える権威を疑うことなく受け入れられる者とそれらを疑わざるを得ない者の間にも存在していて、私たちは様々な境界線を同時に持ち得るし、何よりも刻一刻と姿を変えていくそれらがどのように作用するかは、多分に、私たちと他者との関係性に依存している。そんな関わりあいを通して、私たちは自分が誰であり、誰でないのかを、問われつつ学び、学び捨て、そしてまた学び直していく。」
自分が「誰でないのか」を問われつつ学ぶ。
コーンは事あるごとに「自分の声を見つけなさい」と言っていたという。
学生がコーンの主張をただ繰り返すのを何よりも嫌っていた。そうしようものなら苛立ちながら「それで君の声はどこにあるんだ?」と問うた。
私はいま、ものすごく心が揺さぶられているのに、それをうまく書くことが、情けないほどできない。でも、この揺さぶられている状態をそのままにはしたくないな、と思っている。
コーンが亡くなる前に著者が直接許可をもらって翻訳した『誰にも言わないと言ったけれど』を読んでみようと思う。
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