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能登半島地震のこと(2024年を振り返る①)
本来であれば1本の記事で今年の出来事を時系列で書いてそれぞれの思い出を振り返りたいところだけど、まずは1月1日の能登半島地震に触れないわけにはいかない。
僕の人生にとっても大きな大きな出来事だったのだ。
1月1日の午後。北陸が揺れた。
僕の実家は新潟県糸魚川市。海と山の間のわずかな平野にある小さな街で、晴れた日には国道8号線から能登半島が見える場所だ。
新幹線で帰省して遅めの昼食を摂り、TVでビートルズの番組の録画を観ていたら緊急地震速報が鳴り響き、家が揺れ始めた。
それはそれは長い長い揺れだった。僕は近くの箪笥を、父は神棚を押さえ、母はその場から動かずに揺れが収まるのをじっと待っていた。家中のあちこちから何かが倒れる音が聞こえてきた。
ようやく揺れが収まりチャンネルをNHKに変えると、震源は能登半島沖で糸魚川市は震度5強を観測したと知った。間もなく津波警報が発令され、防災無線は高台への避難を呼びかけ、近所の人たちもわらわらと通りに出てきた。海側へ向かう車はパタリとなくなり、次第に山側へ走る車が増えていく。
僕ら家族も避難の準備を始めた。コートを多めに着て外に出た。
隣に住む80代の大叔父も迎えに行き一緒に避難しようと説得を試みたが、シャワーを浴びたばかりで真冬の外を歩かせるのも心配であり、育てている金魚が心配で「おらはい避難できんくてもてもいいわ、おまんたで行きない」と言うため一緒に行くのは諦めた。
反対側のお隣さんからは水道の栓が開いてしまったのか、玄関先で水が噴き出していた。どうにかしたい気持ちもありつつ、まずはご近所さんの無事を確認しなければという気持ちだった。母も「〇〇さん避難できるかや…ああ出てきたわ、一緒に行きましょう」と声を掛けて回る。
避難先の市役所に着いたが、元旦だったため職員もおらず20分ほど外で待った。寒かったが雪が降ってなくて心底よかったと思った。
スマホの電波もなかなか繋がらず地震に関する詳しい情報もない。1人ずつ連絡できる状況ではないのでひとまずの無事を報告するツイートしかできなかった。
ようやく市役所の鍵が開いたが、外で待つ人々へのアナウンスもなかったため中に入るよう声を掛けて回った。耳の遠いお年寄りの手を引いた。歌えるほどに声が大きくてよかったと思った。
避難場所として会議室のような部屋に案内された。ほどなくして職員がやって来てさらに広い部屋に移った。ここでもひたすら待つしかなかった。電波も情報も何もないため椅子に腰掛けじっと待った。何を待っているのかも分からなかったが、とにかく待った。
広い部屋は寒かった。隣で体調の悪そうなおばあさんが横になったので余分に着てきたコートを貸した。そのうちストーブが2台着いたが、それでもやっぱり寒かった。
たまに緊急地震速報が鳴り余震も起きる。その度に悲鳴にも似た声もどよめきが起こるが、元来穏やかで我慢強い地域性のためか誰も取り乱すこともなくじっとやり過ごす。
やがて日が暮れ夜になる。たまに電波が入るようになったので連絡も取れるようになった。市内の親戚も別の場所に避難しているらしい。避難を諦めていた大叔父も高台に住む次男に迎えに来てもらったと聞き安堵した。
確かな情報がない中だが夕飯時になり、家に帰る者もちらほら出てきた。帰宅者を止める職員もおらず「帰っていいのかも」という空気が徐々に広がる。8時頃には結構な人数が避難所を後にしていたように思う(その判断が正しかったのかは未だに分からない)。
僕ら家族も何かあったらすぐ避難しようと言いながら自宅に戻った。自宅の中は大荒れだった。床が盛り上がり引き戸は開かなくなっていた。何かが当たったらしく窓が1枚割れていた。2階はとりわけ揺れたのか物が散乱し酷い有り様だった。父の部屋は蔵書が倒壊していて、もしこの部屋で地震に遭ったら本の下敷きになっていたと思う。
帰宅してTVで被害の全容を知った。糸魚川はまだいい方で、能登半島は大変なことになっていた。報道を見ていたら何もできずやるせない気持ちになってしまうので、前を向いてまずは自分の手の届く範囲で家を片付けようと切り替えたのを覚えている(今にして思えば僕らがやるべきことはそれしかないのだ)。
1月2日と3日は片付けに費やした。交通機関も順次復旧していたため、奥さんの実家で年を越した兄も手伝いに来た。幸いなことに電気ガス水道は問題なく使えていたため、生活に困ることは特になかった。インフラを担う人々には本当に頭が上がらない。
3日の夜、なんとか家も片付く目処が立ったタイミングで工藤から「東京で収益を寄付するライブをやらないか」と連絡が来た。翌日には会場を押さえて即席でフライヤーを作り告知を始める。僕の2024年はこうして始まった。
(②へ続く)